西行桜


 「春がまた来るたび ひとつ年を重ね 目に映る景色もすこしずつ変わるよ…満開の桜や色づく山の紅葉を この先いったい何度見ることになるだろう」―竹内まりやが五十路(いそじ)を迎えて作ったというこの曲が、古希の我が身になおしみる。▼この春は、これまでになくよく花を見た。吉野に竹田城。そして見納めは篠山春日能の「西行桜」。西行が自庵の桜を見に訪れる客をわずらわしく思い、「花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎(とが)にはありける」と嘆く。夢に老桜の精が現れ、「何故に咎なのか」と詰問するという筋。▼桜の精のゆったり、ゆったりした舞の上を時折、境内の桜の花びらが降りかかってくる中、観る方もいつの間にかうとうとと、夢の世界をたゆとうていた。▼江口の里の遊女の身の上に涙する程の人柄である西行が、この演目の描くように心狭かったとは同意し難いのだが、甚だ勝手な想像をめぐらせると、これは西行のあまりにもの桜への執着ぶりを、世阿弥が嫉妬半分に揶揄したのではあるまいか。▼西行の執着が待賢門院への秘めた恋を託してのものだったことに共鳴する筆者自身も、あのようにまでいちずに花を詠んだ西行に、「花より団子の例えもあるよ」と言ってみたい気がしないではない。西行の舞の召よび込む花つむじ (E)