雨と乳房

2018.06.21
丹波春秋未―コラム

 「あめあめ ふれふれ かあさんが」で始まる「あめふり」。母親がお迎えに来てくれるのがうれしくてならない。母親のさす蛇の目傘に入って家路につく。「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」。母親に寄り添う喜びが伝わってくる。

 雨とお母さん。無関係のようなこの二つの言葉には結びつきがあると詩人の吉野弘は見抜いた。「母という漢字は女に二つの点、つまり二つの乳房を加えた形だが、雨という漢字の中には四つも点がある。雨にも乳房があるのだ」。
 
 雨の中の点は乳房に違いないと吉野は思う。雨は、地上にある生命を育てる根源だからだ。吉野の詩に「雨の中にも/乳房がある?/そうです 数えきれない雨の乳房で/育つものは数知れず」とある。

 雨は、人を思案に導きもする。「ちゃんと耳をすませて雨の音を聞いてごらん。入梅もいいものだよ。人間にものを考えさせるために入梅というものはあるんだ」。井上靖の小説『欅の木』の主人公の独白である。
 
 「梅雨深し今日の日記も遺書めきて」(伊奈秀嶺)。梅雨の日にひとり閉じこもっていると、思案はともすれば沈鬱に傾きやすい。だからこそ雨に洗われたアジサイは、ひときわすがすがしく映るのだろう。梅雨時の沈鬱を取り払ってくれるアジサイは、母親のような花かもしれない。(Y)

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