空を舞う憧れの滑空班 戦時中のグライダー訓練所の実像/兵庫・丹波市


写真・初級機で赤井野を滑空する教官か班員(柏原中昭和17年3月末卒業写真集)

 太平洋戦争中、兵庫県丹波市(旧氷上郡)氷上町新郷の赤井野原野にあったグライダー(滑空機)訓練所。生徒が訓練所整備に携わった旧制柏原中学は、昭和16年11月14日、訓練所で滑空機の命名式と進空式を開いた。教官の教師と20人の滑空班員がデモンストレーションを見せた。

英語模試全国1位の副賞が滑空機

写真・昭和16年11月14日の滑空機命名式と進空式のようす(柏原中昭和17年3月末卒業写真集)

 柏中1号、2号と名付けられた滑空機は、同校が前年の「考える社」主催の英語模試で全国1位になった副賞と、同市春日町国領の男性が寄付したもの。当時、中学校での滑空訓練普及を推進する大手新聞社が全国の中学校に200機を寄付するなど、滑空機の寄付は珍しいことではなかった。

 滑空班は同年4月18日に発足した。学友会を改組した新組織「報国団」の活動に位置付られた。国家非常の時局に際し、学校においても「尽忠報国の誠を効さんことを期す」(柏中報国団結成の辞)組織で、この前後に全国の学校で報国団が作られ、滑空班が急増。丹波市に隣接する篠山市(旧多紀郡)の鳳鳴中学校でも1月にでき、校庭と練兵場で訓練した。

浮くのは一瞬、ほとんど「地上滑走」

写真・昭和18年8月1―10日、赤井野で訓練する柏原中滑空班。柏原中央青年学校も8月1―3日に訓練していた。荻野耕一さんは予科練受験のため欠席=荻野さん提供

 柏原中報国団国防訓練部の滑空班と射撃班は3年生(15歳)以上が入れた。教官は工作担当の教師だった。日ごろは校庭で練習し、春、夏、冬休みに赤井野で集中的に訓練した。

 滑空班の活動は「校務日誌」に詳しい。同年7月23日に校庭で初訓練。初めて赤井野に赴いたのは進空式5日前。二級滑空士から特別指導を受けた。年末の12月24―29日に初めての宿泊訓練。赤井野隣の鷲住寺(じゅうじゅうじ)に泊まった。昭和16年の開所当初、赤井野に合宿所はなかった。

 荻野耕一さん(90)=同市氷上町=は天理の海軍飛行予科練習生に転出した3年の11月末まで班員だった。在籍中、合宿があったが、予科練受験のため欠席。赤井野で訓練することはなかった。対角線を使っても60―70メートルほどと狭い校庭で、地表を滑らす基礎訓練「地上滑走」ばかりを繰り返したと記憶している。「風圧で、初めて乗った時は涙が出た。段々早さに慣れ、目が開くようになった」。

 荻野さんと同期の渡邊隆男さん(90)=東京都=によると、空を飛べる滑空班は憧れの的だったという。「先生にぶん殴られて、ひるまなかった者だけ入れてもらえた」。訓練のたびに数発は殴られた。

 昭和18年に頻繁に訪れた赤井野のことはよく覚えている。風の関係か、訓練場所は毎日変わった。「地上から1、2メートル上がってドスンと降りる。曲がることもやった」。3年生から5年生まで同じ訓練内容だった。

 機体を格納庫から出し組み立てる所から始まる訓練は、早朝から日暮れまで続いた。20人で訓練すると、搭乗できるのは20回に1回。浮いているのはほんの一瞬で、機体の回収とゴム引きばかり。回収も訓練。「ヨイショヨイショと号令をかけて担いだ。重くてしまいには肩から血が出たよ」。中級機(セコンダリー)は、触るだけで、乗らせてはもらえなかった。

希望者多い赤井野「狭き門」

 昭和19年の学徒動員で、7月から4、5年生が西宮市、3年生が尼崎市へ軍需製品製造のため出動。滑空班は班員を失った。

 それでもなお、旧制柏原中と赤井野の関係は続いた。今度は生徒の予科練入学前訓練に赤井野が使われた。そしてこの年、国は滑空訓練の対象年齢を下げ、国民学校高等科、13、14歳の少年を取り込んでいく。

 昭和19年当時4年だった元生徒によると、学徒動員先で赤井野訓練生の募集があったという。動員先で教師は生徒に予科練に志願するよう熱弁をふるった。工場は重労働な上に食事が乏しくみな飢えていた。予科練志願の条件は付いていたものの、故郷に戻り自宅から赤井野に通えるとあって希望する生徒が多く、狭き門だった。