信長の信頼厚かった弟・信包とは 秀頼後見もエピソード少なく 初代柏原藩主の足跡(上)


写真・出家時代の信包の肖像画(京都・龍安寺提供)

 天下統一目前まで迫った戦国武将・織田信長の弟、織田信包(のぶかね)。信長、お市と同母きょうだいで、織田家で重要な役割を担っていたが、残るエピソードはさほど多くない。1598年(慶長3)に丹波国柏原藩3万6000石を与えられ、初代藩主となった信包。いったいどんな人生を送った人物だったのか。柏原藩のあった兵庫県丹波市柏原町からその足跡をたどってみたい。(上)では史実や小説などで描かれる人物像を、(下)では今も丹波市に残る信包ゆかりの史跡を紹介する。

 柏原藩初代藩主、織田上野介信包(1543-1614年)は、織田信秀嫡男の織田信長と同母(土田御前)の弟と言われる。26歳の時、信長の攻略で北伊勢を支配する長野家に養子入りし、伊勢上野城主となったが、後に縁組を解消し、織田家に復した。

 信長からの信頼が厚く、1569年(永禄12)、津15万石を与えられる。織田軍団の重鎮として越前一向一揆鎮圧、紀州雑賀党攻めなど各地で参戦。近江小谷城攻めで浅井長政勢を滅ぼした際は、長政正室だった妹、市と3人娘の茶々(後に豊臣秀吉側室、淀殿)、初(後に京極高次正室)、江(後に2代将軍徳川秀忠正室)を引き取ったとされてきたが、近年では別の人物だったという研究がある。

 信長嫡男、信忠の補佐役を任されたこともあり、語り草となる京都での馬揃えでも、信忠、次男信雄(のぶかつ)に続く3番手として10騎を率いた。

 信長、信忠が殺された本能寺の変後は秀吉に従い、柴田勝家、滝川一益攻略に一役果たしたが、小田原城攻めの際、北条氏政父子の助命嘆願を持ち帰って秀吉の不興を買い、改易された。朝鮮出兵でも消極的だったため煙たがられたとの説もある。

 一時は出家し、京都の慈雲院に蟄居。「老犬斎」と称したが、やがて近江2万石を与えられて秀吉の御伽衆(話し相手)に復帰。その後、1598年(慶長3)に丹波柏原藩3万6000石に封ぜられた。ただ、藩政は家老の佐治与九郎一成(江の最初の夫)に任せ、信包自身は主に大坂城にあって、姪の子、豊臣秀頼の後見役を務めた。

 関ヶ原の戦いにも西軍として参加。細川幽斎が籠城する丹後田辺城(舞鶴市)を攻めたが、柏原の所領は安堵された。柏原では腹心の佐治与九郎をよく使い、各地の領民に慕われるまでに治水や殖産興業に務めたと伝わる。また、西国大名らとともに隣接する多紀郡(現・丹波篠山市)の篠山城築城にも加わった。

 大坂冬の陣の前に大坂城内で吐血して急死。片桐且元による毒殺説もある。家督は3男の信則が継いだ。信包の墓所は京都・龍安寺境内の西源院跡地裏にある。

 

さまざまな作品に登場

 信長の陰になりがちな存在のため、信包の知名度は低かったが、近年は作品に登場することも増えている。

 古くは井上靖の短編小説「佐治与九郎覚書」(1957年、小説新潮)の中で、主人公、佐治与九郎の庇護者として登場する。信包を初めて本格的に扱ったのは、諸田玲子の歴史小説「美女いくさ」(読売新聞に連載後、2008年に中央公論社刊)。ここでは有為転変の運命を切り開いていく江ら、市の3人娘を温かく見守る役として終始登場。諸田さんは丹波新聞のインタビューで、「包容力ある、気骨の人」と評した。

 ドラマでは「江~姫たちの戦国~」(2011年NHK大河ドラマ、田渕久美子原作)で小林隆が、また映画「清須会議」(2013年、三谷幸喜監督)で伊勢谷友介が演じた。またヤングマガジンに連載された漫画「センゴク―統記」(宮下英樹作)などにも登場している。