明智光秀、因縁の「6月13日」 ”神罰”と記す資料 命日と神社焼き討ち同じ日付


写真・豊臣秀吉が「祈願所」として造営した柏原八幡宮の社殿。国重要文化財に指定されている=2019年6月12日午後1時40分、兵庫県丹波市柏原町で

 今から437年前になる1582年(天正10)の6月13日は、来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公で戦国武将の明智光秀が、羽柴(豊臣)秀吉との「山崎の合戦」で敗れ、逃亡中に討たれたとされる日。この「6月13日」に光秀が命を落としたのは「恐ろしき神罰」などと書かれた資料が兵庫県丹波市柏原町にある柏原八幡宮に残されている。この神社、織田信長の命を受けた光秀の「丹波攻め」の際に焼かれたとされ、「神社を焼いた日と光秀が討たれたのは同じ日」と光秀にとっては呪いのような”因縁”が記されている。

写真・1595年(文禄4)に書かれた「柏原八幡神社造営記録」。(「氷上郡の文化財」より)

 光秀に関連する同神社の資料は2つある。1つは、1595年(文禄4)に書かれた「柏原八幡神社造営記録」。光秀が命を落とした山崎の合戦や信長に反旗を翻した「本能寺の変」から13年後に書かれている。

 そこには、「光秀が腹を切り、亡骸をさらした日と神社が焼失した日が同じであるのは、神慮の威光との噂が立った」との記述がある。

 もう1つは、160年後になる江戸中期ごろの1755年(宝暦5)に書かれた同神社の縁起資料「丹波国八幡山略縁起」。こちらには、「1579年(天正7)6月13日、光秀が攻めてきて諸社を焼いた。光秀が謀反を起こして秀吉に討たれたのも(3年後の)同じ月、日で、恐ろしき神罰なり」と書かれている。

 また、両方の資料に、秀吉配下の堀尾吉晴(丹波国黒井城主、後の松江城主)が、関心を持ってこの奇妙な話を聞いたとあり、「略縁起」には、「堀尾が霊瑞に感動して涙を流した」と記されている。秀吉は堀尾を普請奉行として神社を再建し、現在の社殿は1582年(天正10)8月に着工、1585年(天正13)に完成している。

 どちらの資料も後の世になってから書かれたもの。実際に同じ「6月13日」だったかもしれないし、創作や史実とは異なる可能性もあるが、いずれにしても敗者となった光秀が地元でどのようにとらえられていたかは、十分に伝わる資料といえる。