校章に「三種の神器」なぜ? 皇室ゆかりない小学校 その真相に迫る

2019.07.12
ニュース丹波篠山市

三種の神器をモチーフにした古市小学校の校章

新元号「令和」が始まった今年5月1日、新天皇陛下が皇居で「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」に臨まれ、正式に皇位を継承された。この儀式でも改めて注目を集めたのが、歴代天皇が引き継いできた「三種の神器」。その起源は神代にまでさかのぼると伝わる日本の秘宝だ。この三種の神器を学校の「校章」にしている小学校が兵庫県丹波篠山市にある。校章はシンボルであり、学校の由緒や周辺の環境、風土などを織り込むのが通常。皇室とゆかりがない地域で、何の変哲もない学校にもかかわらず、神器を校章にした理由は何なのか? 全国的にも珍しい謎の校章を探った。

 

出身者、市教委も由来わからず

神器を校章にしているのは市南部にある市立古市小学校。中心に「古市」の文字を置き、周囲には2本の剣と2個の勾玉、縁取りには鏡のデザインを配しており、三種の神器の「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「八咫鏡(やたのかがみ)」をモチーフにしている。

調べたところ、神器の一部を校章の図案にしている学校は全国にあるものの、三種すべてがそろっているのは数少ない。

まず、複数の同校出身者に当たったが「変わった校章だったことは覚えているが理由は知らない」。市教育委員会も同様の回答で、天皇家と同市のかかわりを尋ねたが、めぼしいものはなかった。市内には副葬者が皇族の可能性がある「陵墓参考地」に指定されている「雲部車塚古墳」があるが、古市小とはかなりの距離がある。

また、同市内にあった旧村雲小の校章は「天叢雲剣」をモチーフにしていたが、こちらはムラクモという地名が縁という明確な理由があった。

 

義経、四十七士など歴史ロマンある校区

古市小学校の沿革によると、同校は明治6年(1873)に創立。尋常小学校、国民学校を経て、現在に至り、146年の歴史を持つ。

同地区は古くから京都・但馬・播磨・有馬を結ぶ要衝。現在も2本の国道が通る。また、多くの古墳が散在し、5つの山城跡も残っている。

源義経が平家討伐を行った際に通ったという伝承もあるほか、赤穂浪士四十七士の一人、不破数右衛門が討ち入り前に校区内の宗玄寺に滞在していた家族のもとを訪れており、毎年12月には「義士祭」が開かれる。

さまざまな歴史ロマンにあふれる地区だが、皇室とのかかわりが見えてこない。

 

国生み2神まつる神社と関連?

イザナギ、イザナミの2神をまつっている二村神社

沿革を洗い直していると、明治28年(1895)に、「見内二村神社境内に分教場を設置」との言葉を見つけた。

「見内」は校区内の集落で、神社は延喜式内社という由緒ある神社。伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の2神がまつられていたことから「二尊神社」と称したという歴史がある。

同神社に興味深い神話が伝わる。イザナギノミコトが天から下る際、まず剣を落とし、鶏に「この剣が倒れていたら鳴け。もし剣が刺さっていれば鳴くな」と命じ、鶏は剣が倒れていたので、鳴いて知らせた。イザナギノミコトは、「この地は堅く、神の住める場所」として、イザナミノミコトとともに降臨。そのため、「神内(みうち)」と名付けた―。

国生みの神として知られる2神。しかも、降臨の神話まで。そして、イザナギノミコトの左目から生まれたのが天照大神。天照大神の子孫とされる人々こそ、天皇家。これは有力説にたどり着いたか。

 

真理・善・美を象徴? 村報に「理想」

「二村神社と関係がないとは言い切れませんが、今のところそれを裏付ける資料はありません」

そう話すのは地元の郷土史家の酒井辰夫さん(93)。酒井さんの調査によると、昭和8年(1933)に同校が編さんした「郷土読本高等科用」には、校章は明治42年(1909)の紀元節(初代・神武天皇が即位した日)に制定とある。しかし、神器をモチーフに採用した理由までは書かれていない。

ただ、21年後の昭和5年(1930)に発行された「古市村報」には、当時、同校に着任した校長が、学校の教育理想と題して、▽鏡=「万物如実に写す、これ真理を意味」▽剣=「全ての邪悪を断つ、故に善を意味」▽勾玉=「慈愛、すなわち愛の徳を表現し、美を意味する」―とし、「孔子の知・仁・勇、キリストの信・望・愛もみな、三種の神器の現す精神に類似」と寄稿している。

神器を理想の精神として表現していることからかなり有力な説。しかし、「この理想を校章で表現している」と明言した記述はない。

教育理想として三種の神器の精神を記述した村報

古市小も同じ資料を持っており、結局、神器を校章にした根拠は不明ということだった。

同校の荻野孝幸校長は、「制定時は天皇崇拝の時代だったが、敗戦後にも変えることなく現在まで引き継がれていることが不思議ですね」と首をかしげる。

 

卒業生は「恐れ多く」も「誇りに」

酒井さんは、「校章は地元を象徴していなくてもいい。制定時の校長は教育への理想が高かった人だと伝わっているので、村報にあるような考えを象徴したのではないか。21年後とはいえ、制定当時の関係者も多かったはず」と分析する。

卒業生の男性(76)は、「以前から、『三種の神器を使うなんて恐れ多いのでは?』と思っていたが、村報を見ると教育に対する意志の強さが表れている。神器に見合うような精神を育てようというものならば、卒業生として誇りに思う」と胸を張った。

同じく卒業生で、同校の教育について調査している武庫川女子大学教育学部の酒井達哉准教授は、「全国的に見てもかなり珍しい校章」と言い、「昭和5年は世界恐慌もあり、よりふるさとを愛する子どもを育てるために郷土教育を展開していった時期。村報に書かれた校長の理想はそういう時代背景も表している」。ただ、「制定された明治42年とは若干、時代背景が違うため、本当の理由はわからない。現状では酒井さんがお調べになられたものがすべてです」と話している。

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