阪鶴鉄道の開通に尽くした田艇吉、逓信大臣をつとめた田健治郎。

2006.12.27
丹波春秋

阪鶴鉄道の開通に尽くした田艇吉、逓信大臣をつとめた田健治郎。柏原出身のこの兄弟の父親は家事を顧みない人だったが、母親は賢母だったようだ。2人の子ども時代のこと。兄弟の『進学』をめぐって親族達は「寺子屋以上の学問は無益」と反対した。▼幕末の不穏な情勢下、学問をさせて遠方へ飛び立たせるのは危ないというのが親族の言い分だった。これに対して母親は、「こんな時勢だから、学問に励み、忠孝の精神を養うことが大事」と応じ、艇吉は青垣の小島省斎の塾に入門させ、健治郎は篠山の渡辺弗措の家塾に寄宿させた。▼2人がそれぞれ10歳前後のころだ。年端も行かない子どもをひとり立ちさせた母親に、厳しくも深い愛を感じる。健治郎が12歳のとき、弗措らと一緒に歩いて江戸に行くことを希望した。そのとき、母親は大いに喜んだそうだ。子どものたくましい成長を願った母心の底の深さだろう。▼艇吉が師事した省斎は、母子家庭に育った。小さいころ、かんしゃく持ちだった省斎に母親は、「また怒りましたね。その顔と夜叉の顔といずれが醜いですか」と、省斎の顔を鏡に映して見せたという逸話がある。貧しい暮らしながら、省斎の勉学を支えるのに母親は労を惜しまなかった。▼きょうは「母の日」。母に感謝すると共に、母の愛についても考えてみたい。(Y)

関連記事