「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」。

2006.12.27
丹波春秋

「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」。この句を田捨女の作とするのは、「伝説にすぎないようだ」と、朝日新聞の『折々のうた』に載っていた(4月19日付)。この疑問は以前からあり、捨女にくわしい俳人の坪内稔典氏も、「この句を捨女が作ったという確証はない」と述べている。▼広く知られた「雪の朝」の句が、よしんば捨女の作でなかったとしても、捨女の魅力はいささかも減じるものではない。俳人として、尼僧として生きた誠実な足跡にふれると、襟を正されるものがある。▼捨女は、42歳で夫を失ったあと、夫の菩提をとむらうため、庵を構えて3年間も念仏行に明け暮れた。日数にすれば、およそ千日の念仏行。夫を思う捨女のひたむきな真心に、この庵はだれ言うとなく「千日寺」と呼ばれるようになったという。▼その後、捨女は柏原八幡神社に鏡を奉納し、出家。名僧の盤珪禅師を生涯の師として仰ぎ、不徹庵を結んで仏道に生きた。以上が捨女の略歴だが、興味をそそられるのは盤珪との関係だ。坪内氏は「もしかしたら、捨女は盤珪を恋人のように慕ったのではないか」と言う。▼夫を深く愛したであろう捨女が、のちに盤珪に恋心を寄せたとすれば、凛(りん)とした品格を感じさせる捨女像が怪しい光彩をも放ってくる。やはり捨女の魅力は底が知れない。(Y)

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