氷上町の会社社長を退任後、台湾に住む由良さんの案内で中部の嘉義という町に行った。

2007.02.03
丹波春秋

氷上町の会社社長を退任後、台湾に住む由良さんの案内で中部の嘉義という町に行った。仲間の台湾人、あらかた70歳代の人たちは皆友好的で、「小学生の頃は松原と名乗っていた」などと、日本時代を懐かしむ風だった。▼王振栄という人が書いた日本語の冊子「義愛公伝―時空を超えて息づく森川清治郎」を見せてもらった。神奈川の農家出身の森川は日清戦争後、派出所の巡査として36歳で渡台。▼文盲が多かった半農半漁の村人たちに読書や農耕技術の指導をし、排水溝を掘って環境改善に努めたり、牡蠣獲り中に足を怪我した人を家まで2キロ背負って帰るなど親身の世話をし、村中から慕われた。▼ところが旱魃の年、竹筏に漁業税が課せられることになり、村人の生活苦を知る森川は支庁に出向いて窮状を訴えた。しかし逆に「納税拒否を扇動している」と戒告処分に。徴税も警察の職務のため板ばさみになって、銃で自らの命を絶った。今は「義愛公」として嘉義郊外のお宮に祀られている。▼帝国主義時代の日本の植民統治を肯定するつもりはない。森川のような巡査も、決して普遍的な例ではなかったろう。ただ、朝の公園のあちこちから日本のカラオケメロディが流れて来るのを聞きながら、かつてどのように台湾を統治していたのか、調べてみたくなった。(E)

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