葬式仏教

2018.05.26
丹波春秋未―コラム

篠山市の古刹、文保寺が仏前結婚式を挙げるカップルを求めていると前号の本紙篠山市版にあった。私事だが、30年ほど前に縁あって仏前結婚式を挙げた。そんなこともあり、親近感を覚える記事だった。仏前結婚式を挙げる人たちが増えれば、寺院離れに少しでも歯止めがかかるかなとも思った。

葬式や法事にしか存在価値が認められない寺院のありさまを揶揄して葬式仏教という。寺院離れを促している要因でもある。

小泉八雲に「食人鬼」という、村里の話を書いた短編がある。その村では、死人が出た夜、村の者はこぞって遺体を残して避難した。「大きな、形のはっきりせぬ、朦朧としたもの」が現れ、遺体をむさぼり食うという恐ろしい出来事が起こるからだ。

「朦朧としたもの」の正体は、今は亡き僧侶だった。その僧侶は生存中、我利私欲にとらわれ、読経や引導などの僧侶としての務めを、生計を得るための手段としか考えていなかった。その因果で死後、食人鬼と化した。

この作品が発表されたのは124年前。葬式仏教への痛烈な皮肉と読むと、葬式仏教の根は何とも深い。道徳が混迷していると言われる今日だが、梅原猛氏は「道徳は宗教に裏付けられている」という。ならば、宗教の不信を招きかねない葬式仏教の見直しは重大事となる。(Y)

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