極楽

2018.08.05
丹波春秋未―コラム

 棚経の季節が巡ってきた。我が家にも近く菩提寺のご住職が来られる。仏壇に向かってお経をあげてくださるのだが、仏壇に祭った我が先祖は今、地獄と極楽のいずれにいるのだろうか。

 菊池寛に『極楽』という短編小説がある。時は江戸時代。京の染物商の老母が死に、極楽に行く。極楽には先に来ていた夫がいた。亡き夫との再会に喜び、荘厳美麗な極楽の世界に感動する老母だったが、やがて極楽に失望してしまう。亡き夫と二人、ただただ蓮の台に座って過ごす日々が延々と続くからだ。

 働かなくていい。病気にもならない。苦しみも悲しみもない平穏無事な日々。誰しもが願う境地だろうが、未来永劫に平穏無事が続くことが保証されると、それは責め苦となる。底なしの退屈にさいなまれるからだ。

 「四耐」という言葉がある。世間の冷たさに耐える「耐冷」、苦しみに耐える「耐苦」、煩わしさに耐える「耐煩」。そして最後が「耐閑」。冷たさも苦しみも確かに辛いことだが、逆に心を奮い立たせることがある。煩わしさも時に、生きている手ごたえになる。

 四耐のうち、耐えるのに容易なようで最も難しいのが閑であり、退屈だろう。そう考えると、苦しみも悲しみもほどよい程度であるならば、今生きているこの世こそが極楽と言うべきか。(Y)

関連記事