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「特攻隊」推進の大西瀧治郎 「必死」作戦決断の思いとは/兵庫・丹波市

「特攻隊の生みの親」と言われる大西瀧治郎

 大西瀧治郎は兵庫県氷上郡(現丹波市)青垣町西芦田に生まれ、地元の柏原中学から海軍兵学校に進んだエリート軍人です。海軍中将として、太平洋戦争で日本が負け戦に追い詰められた際、“最後の手段”として「特攻隊」を作りました。「特攻」は、爆弾を積んだ1人乗り戦闘機が敵の戦艦に体当たりして打撃を与えるという作戦で、多くの若い兵士が命を落としました。そのような捨て身の抗戦にもかかわらず結局日本は負け、大西は日本が降伏した翌日、自ら責任を負って切腹しました。出撃すれば必ず死ぬという特攻の苛烈な戦法は戦後、国内外から強い批判を浴びましたが、弁明を一切せず、死なせてしまった若者に詫びながら腹を切って自決しました。

レイテ沖海戦前に特攻決断

 太平洋戦争は1941(昭和16)年12月8日、ハワイの真珠湾を奇襲し華々しい戦果を挙げて始まりましたが、アメリカはじわじわと挽回し、翌42年6月を境に日本はだんだん不利な状況に追い込まれ、南西太平洋の重要拠点の島々を次々に失いました。

 フィリピンまで後退した44年10月、「最後の決戦」を図ったレイテ沖海戦を前に、第1航空艦隊司令長官として派遣された大西は、残り少なくなった戦闘機を特攻隊として飛び立たせることを決断しました。

 特攻は、飛行機も資材、燃料も乏しくなる中での苦肉の作戦で、敵の航空母艦などをめがけて積んだ爆弾ごと体当たりします。兵士たちは死ぬ可能性ほとんど100%の「必死」の覚悟で飛び立ちました。

 レイテ沖海戦は各地に残されていた艦船をかき集め、最後の力をふり絞って連合軍艦隊に戦いを挑んで戦局を打開することにより、あわよくば和平に持ち込もうという願いを込めたものでした。と言っても、敵の飛行機が圧倒的に多くて不利は免れないため、航空母艦などをたたいて妨害することにより日本の艦隊を助けようというのが、この時の特攻のねらいでした。

 第1号となった「神風特攻隊」16機は敵の航空母艦などの甲板に突き刺さって多数を撃沈、撃破しました。

 しかし、こうした「必死」の作戦にもかかわらずレイテ沖海戦で日本軍は惨敗し、フィリピンから台湾へ、沖縄へとずるずる後退します。そして、特攻作戦は45年8月15日に日本が全面降伏するまで続けられました。

 奇抜な戦法の特攻は初めのうちこそ敵部隊を震え上がらせる程の成果を上げ、味方の士気も高めましたが、そのうち飛行機の数が一層枯渇して練習機などさえ使わざるを得なくなったうえ、操縦士も未熟な者まで投入しなければならなくなり、一方、相手の戦艦や飛行機も対策に慣れてくるにつれて、効果は乏しくなりました。

 敵の艦隊の中へ、ただ撃たれるために突っ込んでいくようなケースも少なくありませんでした。特攻で亡くなった兵士は陸軍機や魚雷艇の分も合わせて5000人以上と言われています。

配給の卵やリンゴ「特攻隊員にやってくれ」

 特攻作戦は大西が第一線の最高指揮官の時に始まったことは事実です。ただ、大西を“特攻の創設者”と決めつけるのは公平とは言えないでしょう。

 海軍内では神風特攻隊が出動する以前から“人間魚雷”「回天」という兵器の開発が進んでいました。魚雷艇に兵士1人が乗り込んで敵艦に体当たりする特殊兵器で、特攻を期待する土壌はすでにあったのです。

 44年7月にはこうした「飛行機、特殊兵器などによる各種奇襲戦に努める」という指令が軍の最高機関の軍令部より出ていました。大西の決断の少し前には「特攻による全軍の士気、国民の戦意高揚を考慮」する旨の電文が発せられています。

 「俺に続け」と言い遺して敷島号に乗りこむ神風特攻隊の関行男隊長。水杯を交わして見送る大西司令長官。その場面を撮影した映画ニュースや新聞報道が敵艦撃沈の様子と共に伝わると、戦争に疲れ切っていた国民らは沸きたちました。大西はそんな大勢の中で敢えて“引き金”役を引き受けたのかも知れません。

 山本五十六元帥が戦死した後、大西は航空部門のみならず海軍全体の第一線を率いる“切り札”と見られていました。飛行機の操縦が大好きな実践肌。型破りで上司にも豪胆にものを言う一方、親分肌で面倒見が良いので部下たちから大変慕われていました。

 正念場のフィリピンに送り込まれたのは、苦汁の決断を迫られる特攻隊の推進役として白羽の矢が立てられた結果、との見方も出来なくはありません。彼自身は気の許せる部下に「特攻なんてものは、こりゃ統率の外道(邪道)だよ」と漏らしたといいます。

 大西はまたフィリピンでの特攻隊の始動期、自分の食卓に卵やリンゴの配給品が出ると必ず「これは特攻隊員にもついているか」と尋ね、「ありません」と答えると「ではこれをやってくれ」と自分の皿をおしのけたという従兵の回顧談が残っています。

「死を以て英霊と遺族に謝せんとす」

 しかし戦争末期、海軍軍令部次長として東京に呼び戻されると、最後まで「徹底抗戦」を主張し、「あと2千万人死ねば名誉ある和平が出来る」とさえ言いました。特攻隊員に心を配った大西とこの発言がどう結び付くのでしょうか。瞼に浮かぶ特攻隊員一人ひとりへのすまない気持ちがそう言わせたのかもしれません。

 ともあれ終戦の翌日、彼は一言も弁明せずに腹を切って、数時間苦しみながら死にました。遺書には「吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。…諸子は国の宝なり。平時に処し、猶よく特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平のため最善を尽くせよ」と書かれていました。

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