”もう一人の杉原千畝” ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)


写真・多くのユダヤ人難民の命を救った陸軍中将・樋口季一郎

 第2次世界大戦中の1940年(昭和15)、多くのユダヤ人難民を救う「命のビザ」を発行した杉原千畝。「東洋のシンドラー」とも呼ばれた杉原の行動からさかのぼること2年前の1938年(昭和13)以降、旧満州国ハルビン市で、数千人以上のユダヤ人難民の命を救った日本の軍人がいた。兵庫県の淡路島出身で、私立尋常中学鳳鳴義塾(現・同県立篠山鳳鳴高校)から軍門へと進んだ陸軍中将・樋口季一郎だ。日本ではあまり知られていないが、ユダヤ人国家のイスラエルでは今も恩人として感謝されている。そんな「もう一人の杉原千畝」というべき存在であり、後に「玉砕」という悲劇に向き合った軍人の生涯を追った。
.

東条英機に「弱い者いじめ正しいか」

 ナチス・ドイツの弾圧を逃れてドイツを脱出したユダヤ人難民が、シベリア鉄道で満州国との国境に近いソ連領オトポール駅に着いたのは、1938年3月8日のことだった。

 当時、日本はドイツと防共協定を結んでおり、日本の傀儡(かいらい)政権であった満州国は、日本の目を気にして入国を拒否。氷点下20度を下回る気候で凍死者も出始めるなか、関東軍司令部付・ハルビン特務機関長であった樋口は、独自の判断で難民救済に動く。

 満州国外交部に働きかけて特別ビザの発行にこぎつけ、南満州鉄道(満鉄)総裁に訴えてハルビンまでの救援列車を手配した。ハルビンでは地元のユダヤ人有力者らと協力して食事や衣服も用意。また東亜旅行社(現・JTB)に委託し、出国のあっせんや、満州国内への入植、上海などへの移動にも力を貸したという。

 この一件で後日、ドイツから日本へ抗議書が届き、軍司令部に呼ばれて出頭した樋口は、参謀長だった東条英機に、「ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることを正しいと思われますか」と言ったというエピソードが残る。結局、樋口の行為は不問に付されたが、救出劇が歴史の表に出る事もなかった。

 樋口が開いたオトポールからのルートは、「ヒグチ・ルート」とも呼ばれ、満州国境を通過した難民の数は、数千人から2万人にのぼるという。JNF(ユダヤ国民基金)のホームページには「2万人」とあり、1つの定説になっているようだ。

 JNFがイスラエルに所有する寄付者名簿「ゴールデンブック」には、当時の極東ユダヤ人協会長で、樋口に難民救済を求めた医師のアブラハム・カウフマン、現場で実務に奔走した大連特務機関長の安江仙弘、そして樋口季一郎の3人の名前が特別に記載されている。

孫「目の前の人救いたい」

写真・樋口が開いたルートで命を救われた人の息子と握手を交わす孫の隆一さん(左)=2018年6月15日、イスラエル・テルアビブで(樋口隆一さん提供)

 樋口の孫で、明治学院大学名誉教授の樋口隆一さん(72)は、今年6月、日本イスラエル親善協会の招きで初めてイスラエルを訪問。イスラエル建国70周年を記念して行われたイスラエル日本学会で講演も行った。

 隆一さんは昨年、偶然、祖父の原稿束の下にあった、1938年1月11日付「ハルビン新聞」の切り抜きを見つけた。前年12月に行われた極東ユダヤ人コミュニティ大会の開催を許可し、演説も行った樋口へのインタビューを掲載したもので、「ユダヤ人問題解決の鍵はユダヤ人国家の建設しかない」と述べている。

 隆一さんは「樋口がどういう考えを持っていて、当時のユダヤ人がなぜ感激したのかが分かる」と話しており、樋口がユダヤ人を深く理解していたことがうかがえる。

 イスラエル訪問で、祖父の名が書かれたゴールデンブックも閲覧。ユダヤ国民基金から証書も贈られた。また、日本大使館の協力のもと、ハルビンで生き残ったユダヤ難民の子孫とも対面し、感謝を伝えられた。

 「思ってもいなかったような歓迎を受けて驚いた」と隆一さん。「祖父はウラジオストック駐在時代にユダヤ人の家に下宿したことがあり、ドイツ視察旅行でユダヤ人迫害も見聞きしていた。ユダヤ人の辛い運命に個人的な理解と共感があり、とにかく目の前にいる人たちを救いたいという思いで行動したのではないか」と話す。

=つづく=