”もう一人の杉原千畝” 初の「玉砕戦」司令官 樋口季一郎とは(中)

2018.10.30
ニュース丹波篠山市歴史

多くのユダヤ人難民の命を救った陸軍中将・樋口季一郎

旧満州国ハルビン市で数千人以上のユダヤ人難民の命を救った陸軍中将・樋口季一郎だが、1941年(昭和16)、太平洋戦争に突入すると、軍人人生の厳しい局面に入っていく。ユダヤ人の命を救いながら、「玉砕」という言葉が使われた戦いで司令官を務めたのも樋口だった。孫の隆一さんは「樋口にとって、ユダヤ人を助けられたことはよかったが、その後が本当に大変だった」と語り、辛苦を味わった祖父の姿を浮かべる。

「玉砕」と「奇跡の撤退」

日本軍は1942年(昭和17)、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島を占領。樋口は同年、北部軍司令官として札幌市郊外の月寒(つきさっぷ)に赴任した。

戦況悪化で両島への食糧補給もままならない中、翌年、アッツ島に米軍が上陸した。米軍1万人超に対し、日本軍はわずかに2600人。樋口は大本営に増援部隊を要請したが、いったんは決まった派遣が中止となり、アッツ島は孤立。そして、日本軍は全滅した。

「玉のように砕け散る」という意味の言葉、「玉砕」が初めて使われたのはこの戦いだった。実際は玉のように美しいものではなく、阿鼻叫喚の地だったことは想像に難くない。

一方、隣のキスカ島は撤退が決まっており、樋口は下を向く間もなく指揮を執る。何度かチャンスをうかがいながら、濃霧にまぎれて救援艦隊を送り込み、約50分間でキスカ島守備隊約5200人全員を収容して帰還した。樋口が兵器や弾薬の放棄を認めたことが速やかな行動につながり、奇跡の撤退戦となった。

ユダヤ人協会が「戦犯引き渡し拒否」訴え

祖父の名前が入ったユダヤ国民基金のゴールデンブック証書を贈られる隆一さん。このユダヤとの縁が樋口を救った=2018年6月12日、イスラエル・エルサレムで(樋口隆一さん提供)

1945年(昭和20)8月15日に終戦を迎えたが、樋口の戦いはまだ終わらなかった。18日未明、ソ連軍が占守島(しゅむしゅとう)に奇襲上陸。ソ連の戦法を知り抜いていた樋口は、こうした事態も想定しており、占守島守備隊に反撃の指令を出す。激戦の末、米軍の進駐で21日に停戦が成立したが、もしも占守島で食い止めていなければ、ソ連軍は北海道を占領していた可能性もあり、「国土を守った」ともいえる戦いだった。

終戦後、小樽市郊外の寒村で家族と細々と暮らし始めた樋口だったが、ソ連から連合軍司令部に樋口の戦犯引き渡し要求があった。マッカーサー総司令部はこれを拒否。ニューヨークに総本部がある世界ユダヤ協会が、引き渡しを拒否するよう、米国防総省に強く訴えたためであった。かつて樋口がユダヤ人を救ったことが、この時、自分に帰ってきたのだった。

=つづく=

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