8月15日終戦日も滑空訓練 「二度と来るまい」落書き脳裏に

2018.10.15
ニュース丹波市地域

昭和20年7―8月にかけて行われた最後の「青少年戦時特別航空訓練」。前から2列目左端が山田良男さん=山田さん提供

太平洋戦争中、兵庫県氷上郡(現丹波市)新郷にあった赤井野滑空場で「兵庫県青少年戦時特別航空訓練」が行われていた。厳しさを増す戦局が、国民学校高等科1、2年生、現在の13、14歳の少年訓練にも影を落とした。

食事は家畜のエサ同様、ひと月も

昭和20年5月1日から始まった訓練に参加した同市春日町の春日部国民学校高等科2年の藤田敏次さん(86)=神戸市北区、同町出身=は、「ひもじさの余り、何人かで食堂に忍び込み、はったい粉を盗んで食べた」と話す。

訓練当初、焼きサバが、1日おきに麦飯のおかずに出てきた。食糧難の時代。「軍事用にちゃんとした食糧が確保されているんや」と驚いた。中旬からサバは姿を消し、麦飯に豆粕が混じった粗末な物になった。

2か月後、昭和20年7月5日―8月5日の最後の特別訓練時には、さらに食糧事情は悪化。丹波市氷上町の生郷国民学校高等科2年の山田良男さん(87)=東大阪市、同町出身=は、ほとんどが豆粕で麦飯がわずかの、家畜のエサと大差ないものを三食、ひと月食べ続けた。

このころ教官の入れ替わりも激しかった。「私の時の教官はひどかった。訓練生を向かい合わせ、殴り合わせた」。訓練生は兵庫県中から集まっており、尼崎市から来た訓練生が米軍がまいたビラ「日本敗戦まぢか」をこっそり見せてくれた。

グライダーの発射準備で引いたゴム索が切れ、顔を直撃、失神する訓練生がいた。山田さんは機体操作を誤って翼を折り「どつき回された」。「しんどいから休ませて」と申し出た日は、食事を与えられなかった。

合宿所の厨房のおばさんと祖母が知り合いで、祖母経由で訓練の厳しさを聞いた父が担任教師に「息子を帰してやってくれ」と申し出た。父の命を受けた教師が迎えに来たが「残る」と言った。意地だった。

7月20日に氷上郡柏原町の公会堂に、氷上郡の訓練生だけ呼ばれ、志願を迫られた。「いじめのような訓練がこの先も続くなら行きたくない」と粘り、最後の1人になった。そして名前を書いた。「書くまで帰られへん事が分かった」。入隊が9月1日に決まっていた。

合宿所の便所にあった落書きが、脳裏に焼き付いて離れない。「誰が来たのかこの訓練 二度と来るまいこの訓練」。

 

山田良男さんの戦時特別訓練修了証書。「第参壱九号」とあり、戦時特別訓練は「第八回」とある=山田さん提供

「国のためなら親の言うこと聞くな」

玉音放送が流れた昭和20年8月15日も赤井野で訓練が行われた。畑恒則さん(88)=春日町=は、赤井野最後の訓練生の1人。畑さんは同県立の旧制柏原中4年。学徒動員先の尼崎市の空襲で焼け出され、学年全員同年6月に故郷に帰された。

8月初旬、担任教師に「予科練合格者は明日から赤井野へ行け」と指示された。赤井野の地名は聞いたこともなく、随分不安に思いながら、自転車で自宅から通った。合宿でなく、通所だった。先輩が何人かおり、ゴム索を引く役ばかりをさせられた。「3回地上滑走、2回くらい飛んだだけ。飛んだ時に10メートルくらい機体が上がったのかと思ったら、見ていた人に1メートルやと言われた」。

学徒動員先で担任教師に毎日のように大勢の前で「予科練に行く決心はついたか」と迫られた。返事に困り「まだ親に相談していません」と言うと「国のためなら親の言うことなど聞かんでよい」としかられた。「先生がそんな事を言うのかと、心底驚いた」。尼崎市で激しい空襲に遭い命を落としそうになり、「どうせ死ぬならここではなく、敵艦に突っ込んで死のう」と腹をくくった。9月2日に防府の予科練へ行くことが決まった。

8月15日の夕方帰宅し、母親に日本が戦争に負けたことを伝えた。「母親がどんな反応を示したのかはよく覚えていない。ただ、これで戦争に行かんでええんやなと思ったことは覚えている」。

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