今も、あの学び舎に立つ遺族 兵庫の高校生に思い語る 津波で児童犠牲の宮城・大川小


写真・我が子を亡くしながら、今もあの日のことを語り続ける佐藤さん=2018年12月8日午後2時3分、宮城県石巻市で

 東日本大震災が発生した2011年3月11日、在学中の児童の3分の2にあたる74人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校。「なぜ、子どもたちが学校で亡くならなければならなかったのか」と遺族が県や市を相手取って起こした裁判は、一審、二審とも遺族側が勝訴した。その後、上告され、最高裁の判断が注目されている。そんな中、遺族らは、今も我が子を亡くした学び舎に立ち、訪れる人々に”あの日のこと”や”これからの願い”を伝え続けている。

 

「地球壊れるかと思うくらい」

写真・子どもたちが登っていれば助かったはずの山から見た大川小学校

 新北上川を河口に向かって進む。イネ科の「ヨシ」が群生する黄金色の草原の上を水鳥が滑っていった。そんな美しい景色の先にあったのは、何もないさら地の中にたたずむ、あの日のままの校舎だった。

 毎年、農業を通して被災地と交流を続けている兵庫県篠山市の篠山東雲高校の生徒有志らがこのほど、石巻市内の復興住宅で交流活動を行った後、大川小を訪問。記者も同行した。

 「みなさん、よく来てくださいました」。そう言って生徒らを出迎えたくれたのは、この場所で、当時、小学6年生だった三男を亡くした父、佐藤和隆さん(51)だった。

 原型は何とかとどめているものの、壁はなく、崩れたままの渡り廊下があるなど、津波の爪痕を生々しく残している学び舎を前に、生徒たちは言葉をなくす。

 佐藤さんは、静かに語り始めた。

 午後2時46分、児童たちを激震が襲った。「地球が壊れるのかなと思うくらいの揺れだった。子どもたちはものすごく怖かったと思う」

 教師の誘導で校庭に集まった児童たちは、ラジオや防災無線から、「大津波警報発令」の放送を聞く。佐藤さんの息子を含め、6年生たちは、「ここにいたら死んでしまうから山へ」と訴えていたという。校舎のすぐ背後には、児童たちがシイタケ栽培や写生などで普段から登っていた山があった。佐藤さんの案内で高校生たちも登ったが、登山道はなだらかで、低学年の子どもでも十分に登ることができたと推察できる。

 

なぜ、避難は遅れたのか

写真・大川小の2階。津波の水圧で鉄筋入りの床が盛り上がっていた

 大川小に津波が到達したと考えられるのは午後3時37分。地震発生から約51分あった。しかし、後に判明した児童たちの避難経路を見ると、最後の1分ほどでしか移動していないことが分かっている。そして、校舎をのみ込む8メートル60センチの津波が襲った。いまだに4人が行方不明のまま。家族は今も当てもなく、我が子を探している。

 震災2日前に地震があった時、他の学校は高台に避難した。リアルな訓練とも言えた。だが、大川小はこの時も校庭に集まっただけだった。

 震災後、「あの日、何があったのか。なぜ、我が子は亡くなったのかが知りたい」と説明会の開催を求めた遺族。佐藤さんは、「あの時、教育委員会は、『宮城県では1万人が亡くなっている。その中の74人だけに対して説明会を開くことはない』。そう言ったんです」。その後に設置された第三者委員会は、子どもたちが命を落とした最大の原因は、「避難が遅れたため」とした。

 親は怒り狂った。「そんなことは誰でもわかる。問題はなぜ遅れたかだ」

 そして、佐藤さんらは市と県を相手取り、裁判を起こした。

 

学校防災の象徴にしたい

写真・崩れたままの渡り廊下

 一審で勝訴したが、認められたのは現場の教師の過失のみ。納得できなかった。その後、控訴され、仙台高裁では、当日何があったかではなく、事前の備えはどうだったか、ということを学校保健安全法に照らし合わせて公判が展開された。

 今年4月26日、判決が出た。事前に訓練をしていれば、子どもたちも教師も亡くならなかったとして、組織的過失、管理者責任とした。「画期的な判決だった」と佐藤さん。その後、上告され、最高裁が受理するか、棄却するかを待っている状況という。

 佐藤さんは、「登下校中の交通事故は考えられるから、いつも車に気を付けろと言ってきた。けれど、学校で先生と一緒に子どもが亡くなるなんて考えたことがなかった。夢のまた夢。今も夢のよう」。

 そして、「学校で子どもが命を失うような社会はだめだと思う。それは自然災害でもいじめでもそう」と言い、「広島の原爆ドームは平和の象徴。あそこに行けば、戦争はだめだ、原爆はだめだと思う。私たちはここを学校防災の象徴にしたい。一人でも多くの人に来てもらって、学びの場にしていければ。そう私たちは思っているけれど」と言葉を濁らせた。

 学校で起きた悲劇を目の当たりにした篠山東雲高校の生徒たちは、「まちはきれいになっても人の心は傷を負っている。現場を見た自分たちに何ができるか、考えていきたい」と話していた。