親としての本然

2019.03.03
丹波春秋未―コラム

 6日まで氷上町の沼貫交流館で開かれている稲畑人形の展示会で、「饅頭喰い」という作品を見た。二つに割った饅頭を両手に持っている子どもをかたどった人形だ。「父母のいずれが好きか」と問われた子どもが、饅頭を二つに割り、「どちらがおいしいか」と反問した話に基づいたものだそうだ。

 この子は父母を共に慕っていたのだろう。そう思った時、虐待を受けている子どもの心中を察せざるを得なかった。「父母のいずれが好きか」の質問に何と答えるのか。

 シェイクスピアの『リア王』に、「人は泣きながら生まれてくる」というセリフがある。せっかくこの世に生を受けたのに、待ち受けていたのは虐待。まさに泣きながら生まれてきたように思える。

 親は我が子を誰よりも愛おしく思うもの。我が子のためならば、親は自らを犠牲にすることも惜しまない。それが親としての本然だと思ってきた。しかし、相次ぐ虐待の報道に接すると、子を思う親の利他の心は普遍的でも根源的でもないのでは、と疑ってしまう。

 知り合いのベテランの学校教諭から、「今の親の中には『我が子をどうしても好きになれない』と言う人がおられます」という話を聞いた。親としての倫理観の希薄化を思う。『ハムレット』にこんなセリフがある。「今の世の中、関節がはずれてる」。(Y)

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