米売って授業料撤廃 明治期の村長考案「学田」 教育に懸けた歴史秘話


写真・「学田」を創設し、小学校の授業料を撤廃した上田捨蔵

 入学の春―。小学校の校門をくぐる子どもたちは、期待に胸がふくらんでいるだろう。どの子も等しく小学校で教育を受ける。今では当然の話だが、昔はそうでなかった。授業料が必要だった明治時代は、学校に行けない子どもたちが多くいた。教育の大切さがまだ十分に理解されていなかったことと、貧しい家庭事情から授業料を払えない家庭があったからだ。そんな時代にあって、子どもが学校に来られるよう、授業料を撤廃しようと考え、実行した村が兵庫県の山深い地にあった。

 

呼び掛けに村人協力、田畑を寄付

写真・進修小学校の校庭に立つ「学田」の石碑

 現在の丹波市春日町。同町にかつてあった国領村で村長を務めていた上田捨蔵(すてぞう)らが力を尽くし、子どもの教育資金を生み出す「学田(がくでん)」というものをつくり、授業料をなくしたのだ。

 捨蔵は、嘉永6年(1853)の生まれ。明治22年(1889)、35歳のときに初代の国領村長となり、大正5年(1916)に村長を退いた。その間、村長当選7回、在職期間は23年余りに及んだ。

 国領村には、進修小学校という学校があった。中国古代の書「易経」の「君子徳に進み業を修む」の語から、明治21年に進修小学校と名付けられた学校で、今もその校名を引き継いでいる。

 明治28年度の記録によると、男子の児童数は村内に244人いたが、そのうち学校に通っているのは157人、女子の児童数は225人で、学校に通っているのは76人という状況だった。

 入学しながら途中で学校をやめる児童が多く、学校に行ける児童でも家の手伝いのために休むことが多かった。捨蔵は、これらの児童を救済することこそが教育の発展につながるとの信念を持っていた。

 捨蔵と、進修小学校校長の玉島常太郎は、仕事の合間を縫って、学校に来ない児童の家を訪ね、学校に来るように促した。2人の家庭訪問はたびたびのことだったので、村人たちの間で「蚊の足が4本通る」という陰口がたたかれた。捨蔵も玉島校長も細身の体で、足が細かったため、「蚊の足」と言われていたのだ。

 子どもが学校に来ないのは、それぞれの家にとって授業料が重荷になっているからであり、就学率をあげるには授業料を軽くしなければならない。そのために学校の基本財産をつくって、その財産を授業料にあてようと考えた捨蔵は、明治29年、村の主だった人たちが集まった会合で、「学校がお金を持っていたら、子どもたちから授業料を集めなくていい。収穫した米を売って、そのお金を授業料にしよう」と、「学田」を創設することを提案した。

 その会合にいた村人たちは「それはすばらしい」と賛同し、それぞれの田畑を寄付することを申し出た。お金の寄付を申し出る人もいて、「学田」を実現できる見込みが立った。

 

「教育村」として名をはせる

 寄付を呼びかける活動をしたところ、寄付の申し出が相次いだ。この年の11月、水害の視察に村を訪れた兵庫県知事に学田の話をしたところ、知事もすっかり感心し、自らお金を寄付した。そのことに村人たちも感動し、部落の共有林を寄付する動きも出てきた。

 田んぼでできた米、山で育った木材。それらを売ったお金を子どもたちの授業料にするという「学田」は、画期的な事業だった。

 「学田」の事業を記念した石碑も建てられた。石碑に刻む文章を書いたのは、「進修小学校」の校名を考えた、重野という文学博士で、「(学田のおかげで)父兄はお金の心配をすることがなくなり、子どもたちが学べる環境が整った」などとあり、今も進修小学校の敷地内に立っている。

 学田のおかげで、学校に通う子どもたちはどんどん増えた。また、大正11年、昭和3年には校舎の増築をしたが、それらの費用はすべて学校の基本財産でまかない、村人たちに負担を求めることはなかったという。学校の教育内容の充実も図られた。そうした発展に、国領村は、兵庫県下でも有数の「教育村」「模範村」として名をとどろかせた。

 捨蔵とともに子どもの就学に力を尽くした玉島校長は、明治20年に進修小学校長として赴任し、明治31年に病気で亡くなった。36歳だった。病の体を押して村の教育に身を捧げたことをたたえ、捨蔵は村葬を挙げた。また有志とともに、玉島校長の2人の遺児に奨学金を支給した。

 捨蔵は村長として農業や林業などの産業、交通、衛生などの各方面でも著しい業績をあげた。人間的には、信仰心の厚いことで知られ、毎日、夜が明けないうちに起き、神棚、仏壇にお燈を供えたあと、神社に参拝した。この日課は数十年にわたって続き、一日も怠ることはなかった。

 人のもめごとの仲裁に入ることもしばしばで、捨蔵の示した解決案に「村長さんがそう言われるのなら」と、収まることもたびたびだったという。

 村人たちは、捨蔵の功労をたたえて大正11年、頌徳碑を建立。11月23日に除幕式を行った。それからまもなく脳いっ血を起こし、12月13日に亡くなった。