渋沢栄一と井上秀

2019.04.14
丹波春秋未―コラム

 昭和6年、日本女子大学校の4代目校長に就任した春日町出身の井上秀。秀の前の3代目は、1万円札に描かれることになった渋沢栄一だった。「日本資本主義の父」と言われる渋沢だが、教育にも熱心で、同大学校の創立と運営に力を尽くした。

 同大学校の卒業生でもある秀は、学校の同窓会「桜楓(おうふう)会」の活動に深く関わった。アメリカに留学し、大学の同窓会が社会活動に積極的なことに刺激を受けた秀は、アメリカで行われている託児所を桜楓会で立ち上げることを思いつき、渋沢に相談した。

 秀はのちにこう書いている。「(渋沢は)言下に了承して下さったのみならず、それは託児所と命名して下さった。これが我が国に於ける託児所の始めであり、その名も初めてのものであります」。

 渋沢の協力も得て大正2年、東京・巣鴨に日本で初めての託児所を開設。家計が苦しくても乳幼児がいるために働きに出られない女性やその家族を支えた。

 「片手に論語、片手に算盤(そろばん)」と説き、論語を行動規準にした渋沢は単なる実業家の枠におさまらない人物だった。日本女子大学校の創立に奔走し、朝ドラ「あさが来た」のモデルになった広岡浅子も、実業家だけでは語れない人物だった。秀が親しく交わった二人のように、芯のある実業家は今、どれほどいるだろうか。(Y)

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