100歳の女性、18歳の”自分”と再会 82年ぶりにモデル務めた日本画と対面

2019.06.02
ニュース丹波市地域

昭和11年、18歳の少女だった自分が描かれた絵と82年ぶりに対面し笑顔が弾ける浅野よしゑさん=2019年5月23日午後1時49分、兵庫県丹波市柏原町で

大正8年生まれで今年満100歳を迎えた兵庫県丹波市柏原町の浅野よしゑさんが、18歳の時にモデルとなり、昭和11年の文展(日展の前身)で入選した日本画と82年ぶりに対面した。ほぼ等身大の作品は、出品前に1度見たきり。「娘の時にモデルになった絵が賞に入ったことは生涯忘れられない思い出。こうやって再会ができ、うれしい。私にもこんな若い時があったんやなあ」と、やわらかい眼差しで絵の中の少女の自分を見つめていた。

 

隣で暮らした日本画家から依頼受け

モデルになった18歳の浅野さん

作品は、日本画家・堂本印象門下で、旧制柏原中学美術教師の日本画家・山本茂斗萌(もとめ)さん(1902年―85年)が描いた「少憩」。

後に日展入選24回を数えることになった山本さんの官展初入選作品。元の作品は、向かって左側に足踏み式のミシンを、右側に仕事の手を休め、いすに寄りかかって一服する少女を描いたふすま2枚分ほどの大作。再会した作品は4分の1ほどの大きさで、色白の少女の上半身像になっていた。髪の分け目まで忠実に描き、眉の一本一本まで丁寧に描かれた作品に、浅野さんは、「絵の中ではいつまでも若いなあ。きれいや」と白い歯を見せて笑った。

浅野さんの自宅の隣に山本さん夫妻が住んでいた。当時、山本さんの妻・百子さんから母づてに「夫がよしちゃんを描きたいと言っている」と聞かされ、山本さん宅で描いてもらった。

モデルは初体験。「ようけ(たくさん)はないけど、一番好きな着物に着替えて」(浅野さん)、帯は百子さんから借りたものをつけた。注文をつけられることはなく、いすに座っていただけで、用事は1日で済んだ。

その後、「作品ができた」と山本さん宅に招かれた。2階への階段を上がる途中、目に飛び込んできた絵に息をのんだ。「私がそこに居るようだった」―。

 

大正―令和生きた記念に家族が対面企画

山本茂斗萌さんの日展初入選作「少憩」(1936年)。縦横約1・9メートルの大作(「日展史12改組編」より)

自分の隣にミシンが描かれていることにも驚いた。「先生は座っている私を描いただけだったのに、絵には使ったこともないミシンがあった」。入選の知らせにまた驚いた。「お隣の先生が、そんなすごい画家さんだったなんて」

百子さんが、「よしちゃんという名前が縁起が良かった」と喜んでくれたことを鮮明に覚えている。「たまたま山本先生の隣に住んでいたおかげで、本当に良い思い出ができた」としみじみと話した。

受賞した絵は、遠阪村(現在の丹波市青垣町遠阪)の村長で、後に県会議長を務めた生田克已さんが購入した。浅野さんは、「当時、田んぼ1枚ほどの値段だったと聞いた」と話す。

浅野さんは、20歳で警察官と結婚。数年後、駐在署員の夫が生田さん宅で作品を見せてもらっており、生田家に所蔵されているであろうことは知っていた。

100歳を迎え、大正、昭和、平成、令和と4時代を生きた長寿の記念にと、浅野さんの家族が知人に生田さん宅との橋渡しを依頼し、対面が実現した。

絵は今も生田邸の玄関に飾られ、来客を迎えている。克已さんの長男、伸一郎さん(82)によると、克已さんが屏風に仕立て、長く客間に飾っていたが、畳んで蔵にしまっている間にミシンが描かれた左側が湿気で汚損、残った部分を額装し直したという。

浅野さんの長男、準一さん(75)は「母は記憶は確かな方だが、モデルをした時のことはとにかく詳細に覚えている。良い冥土の土産ができた。絵を貸して下さった生田さんに感謝したい」と感激していた。

 

描いた画家「積年の苦労奏功し」

山本茂斗萌さんの日展初入選は、昭和11年10月15日の本紙が「積年の苦労奏功し」「一家中の精魂籠る作品」と報じており、10月20日号では、「少憩」の作品写真を掲載している。当時の紙面に写真が載るのは稀だった。モデルに関する記述はない。

15日号によると、山本さんは、同年の夏休み中に下絵の研究をし、9月10日ごろから色を塗り始めた。構図を作ってから応募締め切りまでひと月を切っており、「日が足りない」という夫を妻の百子さんが「今年出せねば将来いつ出す時がありましょう」と力強く励ましたという。

山本さんは学校から帰るとすぐ制作にとりかかり、夕食を食べる時間がなかったため握り飯をほおばって午前2時、3時ごろまで描き続け、9月29日に搬入し、締め切りに間に合わせた。制作中、百子さんは客人の夫への面会を断り、小学校4年生の長女を年長とする一男二女も、父を支える母の邪魔をしないように、長女が母親代わりを務めた、とある。

また、百子さんは、堂本印象の他に夫が師事していた日本画家の三木翠山が夫に絵の話をする時には同席し、一言半句も聞き漏らさず、夫が耳の痛い話を聞き逃している時でも必ず記憶し再三、夫に注意する時もあったほどだった、とも。

日展審査員を務めた堂本印象から10月12日夜に入選の電報が届いた時は、一家中大喜びしたとある。小学2年生の長男は「あんな大きな絵がどこに並べられるんだろう、と不思議がっている」などと朗らかな雰囲気を伝えている。

三木翠山は「人物の姿勢、容貌全構、裂地の凹凸光線洵にやわらかく総体に成功です」「手に何ももたぬところに余情があります、何かもの思はしげに…今年こそ大丈夫です」と、「少憩」入選に、折り紙をつけていた。

浅野よしゑさんによると、日展かどうかは定かではないが、山本さんは妻を描いた作品で公募展に挑戦していたという。思うような結果が出なかった時にモデルに声がかかったという。

 


山本茂斗萌(本名・求) 東京生まれ。東京美術学校(現東京芸術大学)日本画本科次席卒。1928年兵庫県立柏原中学校(旧制)勤務。62年に柏原高校を定年退職するまで一度も異動がなかった。堂本印象画塾「東丘社」(京都市)に35年に入塾。翌36年、34歳の時に「小憩」で日展初入選。これをきっかけに日本画家として羽ばたいていく。日本画家の中尾英武氏の父。丹波市内に作品を多く残し、柏原高校、氷上西高校の校章デザインも手がけた。

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