軽蔑された輜重兵 「星の生徒」に感銘受け 消えゆく戦争の記憶(2)

2019.08.12
ニュース丹波篠山市歴史

少尉として輓馬小隊の指揮を執った当時を振り返る藤森さん=2019年8月5日午後5時57分、兵庫県丹波篠山市今田町今田で

ことし95歳となった兵庫県丹波篠山市今田町今田の藤森哲雄さんは、陸軍の兵科士官を養成する「予科士官学校」を17歳で卒業。早々と将校になって活躍することを期待されていたが、結核を患い、同期に遅れること2年、昭和20年6月に鹿児島の第146師団輜重(しちょう)隊に配属された。米軍の本土上陸作戦「オリンピック作戦」を迎え撃つために構築中だった第一線の海岸陣地に、食糧や被服、武器、弾薬などを補給する任務にあたった。しかし着任してわずか2カ月後、突然告げられた終戦の言葉にしばらく現実感がなかった―。

両親ともに教師という家庭に生まれ、長男ということもあって「跡を継いで教師に」との親の願いに応え、灘中学校へ入学。しかし、小学校高学年の頃に出合った「星の生徒」という陸軍幼年学校の生活を描いた小説に感銘を受けていた藤森さんは、中学4年の時に予科士官学校を受験。競争率80倍超えの難関を突破し、その年の12月に入学した。

卒業を控えたある日、「みんな華々しい兵科ばかりを志願するが、それでは戦争ができない」とあえて輜重兵を志願。「それを聞いた全員があきれ返っていましたよ。なぜなら、明治頃から『輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょ、とんぼも鳥のうち』という戯れ唄があったほど、第一線で戦わない輜重兵は軽蔑されていたからです」。

昭和16年4月、熊本の輜重兵第6連隊に配属され、17歳の上等兵として士官学校での学びを現場で生かす厳しい訓練に励んでいたが、結核を患い入院。昭和18年に復学を果たしたが結核が再発、結局2年間の療養生活を強いられた。

昭和20年6月、21歳で陸軍士官学校を卒業し、見習士官として鹿児島第146師団輜重隊に配属。特攻基地で知られた薩摩半島南部中央のまち「知覧」のとなり、川辺町に師団司令部があった。薩南鉄道経由で到着した物資を荷馬車(輜重車)に積み替え、海岸陣地の前線部隊まで届ける任務に従事。2カ月後には少尉となり3個分隊からなる42両編成の輓馬小隊の指揮を執った。輸送中、数度、グラマン戦闘機から機銃掃射を受け肝を冷やした。

8月15日の玉音放送は雑音がひどく内容が聞き取れず、その日の夜に上官から口頭で告げられた。「苦戦していることは知っていたが、まさか負けてしまうなんて」―。

昭和25年、朝鮮戦争勃発を機に、翌年、自衛隊の前身「警察予備隊」に入隊。それまで勤めていた大手百貨店を辞め、27歳から再び国防に携わった。自衛隊生活の最後は、東北地方南部を管轄する第6師団副師団長(陸将補)として勤務し、53歳で退官した。

「日本では長く平和が続いているが、今、ロシアや中国、北朝鮮の動きが不穏だ。戦争を起こさないためにも、私たちは今の国際情勢をもっと真剣に考え、危機感を持てるだけの勉強も必要だと思う」と警鐘を鳴らす。

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