八幡山城

2019.08.01
丹波春秋

 「柏原歴史学講座」で、千種正裕・柏原八幡宮宮司の八幡山城についての話が興味深かった。現在の八幡宮とその裏手の山域に明智光秀が城を築いたらしいことは事実だが、いつ何の目的だったか、謎も多い。

 千種氏は「兼見卿記」の「天正7年(1579)10月12日、光秀の柏原新城普請を見舞う」との記述をもとに、「これは赤井直正の黒井城を陥落させた2カ月後のこと。だから戦略としてより、戦後に氷上地方を統治する目的で作っていたのでは」と話した。

 戦略的な城としては多紀・氷上境界の金山城が有名。八上、黒井両城を望め、確かに絶好の地だが、その一方、柏原八幡での築城が何故黒井攻めに役立つのか、筆者も疑問に思っていた。この説明なら十分納得できる。「『柏原新城』は金山城のあった柏原の小倉を指す」との説もあるが、当時の他の文書などでは小倉は「柏原7カ村」に含まれていないそうだ。

 有力貴族の吉田兼見は光秀と昵懇の仲だったにせよ、京からわざわざ光秀を訪ねたのが戦争準備の城普請の最中だったというよりは、平定後の祝いも込めてだったという方が自然ではある。そういう記述がないのが、疑問として残るとしても。

 子供の頃毎日遊び回っていた同城遺構の一帯は、今は鬱蒼とした雑木林となり、誰も足を踏み入れない。(E)

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