【光秀×丹波】丹波攻めの兵火免れた本尊 僧侶の手で持ち出され今に 焼き討ちの業火から440年

2020.01.03
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丹波攻めの際に兵火を免れた善導寺の薬師瑠璃光如来像=兵庫県丹波篠山市小多田で

1月から戦国武将・明智光秀を主人公に、群雄割拠の乱世を描いたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映がはじまる。織田信長の命により、2度にわたって兵庫・京都にまたがる旧丹波国に対して、「丹波攻め」を行った光秀。光秀にすれば「平定した」、丹波地域にとっては「征服された」という表裏一体の意味を持つ。多くの寺社なども焼かれ、民衆は混乱に陥ったことは想像に難くない。「爪痕」は今も点在し、戦国の記憶を現代に伝えている。

兵庫県丹波篠山市小多田にある善導寺(加藤義康住職)の本尊・薬師瑠璃光如来像。光秀の丹波攻めの際に寺院は焼失しながらも僧侶の手によって兵火を逃れた仏像の一体だ。制作から約800年、丹波攻めから約440年、丹波地域の歴史を見つめ続ける。

寄木造りの座像は、像高51・5センチ。元は同寺に近い山腹にあり、平安時代に創建されたと伝わる「興聖寺」の本尊で、作風などから東大寺仁王門で有名な運慶・快慶の流れをくむ「慶派」の仏師が、1200年代に制作したものと推定されている。

興聖寺は天正6年(1578)、光秀の丹波攻めの際に焼失。焼かれた理由は尾根伝いに八上城に兵糧を送り込んでいたためとされ、文字通り、城の「生命線」だった。

興聖寺などが落とされた八上城は餓死者数百人を出し、翌年、落城した。

興聖寺の建物は灰燼に帰したが、寺院にあった2体の仏像は僧侶らの手によって兵火を免れ、うち1体は14年後の文禄元年(1592)に善導寺が創建された際に本尊としてまつられるようになった。もう1体の阿弥陀如来は、真福寺(河原町)の本尊となっている。

浄土宗で薬師如来を本尊とする寺院は珍しく、興聖寺が山岳修験道の拠点寺院だったことの名残という。

加藤住職(84)によると、2体の仏像は善導寺が創建されるまで、興聖寺跡の岩に安置され、雨ざらしの状態だったそう。

しかし、人々は山中で陽光を浴びて光輝く仏像を厚く信仰し、新たに建てられた寺院の本尊にしたという。

薬師如来像は近年まで指が欠落していたり、無理な修復がされているなど、当時のままの姿だったが、2013年に修復が行われ、兵火に遭う前の姿を取り戻した。

加藤住職は、「丹波篠山に慶派の仏師の作があること、興聖寺焼失後も信仰を集めたことなど、当時の人々のたくさんの思いが詰まった仏様。さまざまな歴史がつながっている証拠でもあります」と静かに手を合わせた。

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