城主と伝わる墓に花手向け 光秀と激戦「赤鬼」の先々代? 末裔「先祖大切にしたい」

2020.01.24
ニュース丹波市地域明智光秀と丹波地域歴史特集

黒井城主だったと末裔に伝わる「荻野和泉守」の墓碑=2020年1月15日午後2時20分、兵庫県丹波市春日町山田で

戦国時代に明智光秀と激闘を繰り広げた、「丹波の赤鬼」こと赤井(荻野)悪右衛門直正の居城・黒井城跡(兵庫県丹波市)に比較的近い集落、同市春日町山田の山裾に、江戸期に建てられたとみられる墓碑があり、近くに住む末裔が今なお花を供えている。墓碑には戒名とともに「荻野和泉守」と俗名が刻まれており、末裔には、かつて黒井城主だった人物として伝わっている。1794年(寛政6)に編さんされた地誌「丹波志」には、この墓碑を見て書いたとみられる記述が残っている。調査に当たった同市文化財保護審議会委員の山内順子さんは、「江戸期の人が見たであろう墓碑が今も残っている。当時のものが記述通りに現存する価値は高い」と話している。

江戸期の地誌にも登場する墓碑

「丹波志」に見られる荻野和泉守の項

「荻野家」の墓地内にたたずんでおり、台座を含めた高さは1メートルほど。「一翁道三居士」と戒名が刻まれているほか、「元和二年(1616)二月十六日」と彫られている。

「丹波志」には、和泉守について「もとは黒井の城主で、後に赤井氏に仕えた」「民家の艮(うしとら、北東)に塚がある」「石碑には法名が一翁道三とある」「荻野の定紋は丸に二つ引き」などと記載されている。

和泉守の末裔の女性(82)によると、亡くなった義父や夫から、かつて荻野家の本家は墓碑の近くにあったと聞いているという。本家があった位置からすると、墓碑は北東にたたずんでおり、刻まれた内容を含め、丹波志の記述と一致する。

女性宅に伝わる家系図には、和泉守は「朝日城(同町朝日)に生まれる。文亀年間(1501―04年)、赤井氏に推されて黒井城主となる。のち荻野伊予守に黒井城を譲り、天正3年(1575)、氷上郡(現丹波市)山田村に居を定む」と記されている。

墓碑に刻まれた「元和二年(1616)二月十六日」を和泉守が亡くなった日とすると、年代的には判然としないが、黒井城の歴史についてまとめた本「丹波戦国史」には和泉守について、おおむね家系図と同様の内容が記されており、「丹波攻め」で有名な赤井直正の先々代の城主とある。

一方で、黒井城の歴史に詳しい郷土史家によると、直正以前の城主については史料が乏しく、今のところ詳しいことは分かっていないという。

次代と見られる夫妻の墓もたたずむ

今なお石垣が残る黒井城跡

和泉守の墓碑の横には、和泉守の次代と見られる「荻野丹後守」夫妻の墓碑もある。山内さんは「同じ石材を使い、同様の意匠を施していることから、二代の墓碑をまとめてつくったのではないか」と見ている。墓碑の裏手には、荻野家の紋「丸に二つ引き」を屋根に施した祠もあり、山内さんは「荻野家の始祖を祭っているのではないか」と話す。

末裔の女性は「今となっては先祖に関する詳しい歴史は分からないが、義父や夫が大事に供養してきた。しっかりと引き継ぎ、先祖を大切にしたい」と話している。

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