しのばれる国家総動員体制 21歳戦死の遺族に伝わる資料 戦局悪化前、丁重に扱われた戦没者

2020.08.15
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叔父の西山忠二さんの遺品を整理する余田勝子さん=2020年8月8日午後2時48分、兵庫県丹波市柏原町柏原で

昭和17年(1942)9月28日に北支(中国北部)で戦死した陸軍衛生上等兵の西山忠二さん(享年21)=兵庫県丹波市柏原町出身=の遺族が、終戦75周年の節目に丹波新聞社に遺品や関係書類を公開した。その数、100点以上。血のついた戦闘帽や看護の本など戦地から届いた遺品のほか、死後に柏原町の両親の元に届いた軍や役所からの公文書、葬儀関係、各団体からの感謝状などの資料があり、国家総動員体制下の様子がしのばれる。

西山忠二さん入隊時の姿。この写真が葬儀の遺影に使われた

衛生兵として中国へ「冬物衣類送ってほしい」

西山さんの実家は戦時中、配給所だった西山徳三郎商店(現「わかさや」)。旧制柏原中学を卒業(中38回)後、薬局を開こうと大阪の薬問屋で見習いをしていたときに白紙召集(徴用)された。姫路城のそばにあった陸軍病院などで学び、衛生兵として昭和17年4月、20歳で中部四十六部隊に入隊した。8月1日に北支に上陸、「鷺第三九一二部隊山下隊」に編入。9月28日に河北省の南洞村付近で戦死した。

 

関係者に入隊を知らせるはがき(昭和17年4月1日付)

存命中の資料は、姫路の陸軍病院で研修中にとった自筆ノート、入隊報告のはがき、入隊から北支派遣までの間の自身の出納帳、現地から故郷にあてた軍事郵便など。自身の21歳の誕生日の9月16日に柏原町の妹からのはがきが届いた。その喜びをつづった故郷への返信が、生前最後の記録。

 

西山さん自筆の看護術のノート。姫路陸軍病院で衛生兵教育を受けたときのものと見られる

最後の軍事郵便は2葉にわたる。1葉で家族を気遣うとともに、「今月はじめごろ、3919部隊へ行きまして、偶然、荻の、能せ両君に出会いました。同じ姫路で衛生兵教育を受けたもの6名とも3908部隊で出会いました」と近況を報告。もう1葉で、中国の景色を紹介し、冬物衣類と看護の本を買って送るよう依頼している。この1週間ほど後に戦死するが、緊迫した様子は全く書かれていない。

柏原町の戦死公報(昭和18年12月5日)

地雷や銃弾で「護国の花と散る」

遺品の革のショルダーバッグの中には、「衛生法及救急法」「陸軍警法、陸軍懲罰令」「作戦要務令」などの豆本、がま口財布が入ったカーキ色の「貴重品袋」、爪切り、七つ道具と共に、「鷺三九一二部隊陸軍衛生上等兵 西山忠二遺留品」の木札が入っていた。「東亜建設」「聖戦完遂」の文字が千人針で縫われた帽子は、戦死時に身につけていたもので、血が付着している。

12月5日付の柏原町役場の戦死公報も残っている。家族は忠二さんの死を死から数日のうちに電報で知ったと見られる。忠二さんが亡くなった5日後の10月3日の日付で親友が柏原町の実家に送った軍事郵便「敵の地雷及び小銃弾のため右鎖骨上脈左側胸部貫通銃創下腿軟部地雷破片創を受け…遂に護国の花と散りました」で詳細を知ったと見られる。また11月9日付の消印で、部隊長から戦死を知らせる手紙が届いている。午前9時5分と、死亡時刻の記載がある。

西山さんの戦死の状況を綴った戦友からの軍事郵便(昭和17年10月3日付)

ほかに、陸軍省、賞勲局からの弔慰金、特別賜金交付書、町葬の案内はがき、その際の香典芳名帳(578口)、中部第四十七部隊長、篠山憲兵隊長、氷上郡内の町村長や大日本婦人会の町村の支部長らの名前がある参列者名簿、天皇皇后からの「祭粢料」、陸軍大臣・参謀総長、教育総監からの「御供物料」ののし袋などもある。

賞勲局からの賜金交付書。日付けは命日

忠二さんの父、徳三郎さんは、息子を亡くしたことで手にした金銭を、各方面に寄付した。陸軍大臣東条英機、軍用飛行機献納委員会委員長で氷上郡町村会長の塚口誠一、柏原町長の本庄實次、柏原中学校長の植木孝之助、柏原町銃後奉公会、本町銃後奉公会、柏原警防団からの感謝状が残っている。

寄付金に対する旧制柏原中学校長の感謝状

「衛生兵だから生きて帰れる」

忠二さんの姪で、遺品を整理した小学校教頭の余田勝子さん(48)は、父の春男さん(忠二さんの18歳下の弟)らから、徳三郎さんが話す忠二さんにまつわる思い出を聞き取り、記録に残している。

余田さんによると、柏原中から同級生4人が衛生兵になり親友と、「衛生兵だから生きて帰れる」と話していたという。

遺族に届いた戦死に関わる「諸給與(与)金内譯(訳)表」

余田さんは、「資料を一切合切残していることから、祖父の叔父・忠二への強い思いがしのばれる」と言い、「軍事郵便の記載内容や、天皇からの御下賜金、一上等兵のために町葬が行われたという点から、戦況が峻烈を極める前に亡くなった戦没者は、驚くぐらい丁重に扱われていたことが分かる。また軍部だけでなく、地域も学校も総がかりで戦争に巻き込まれていたようすも伺える。戦後75年の節目の年。先の戦争、平和について改めて考えるきっかけにしてもらえれば」と、公開の思いを語った。

忠二さんの遺体は現地で荼毘に付され、寺院の床下に埋葬されたと、忠二さんが慕っていた上官からの便りで知った。役場で渡された桐の箱には、遺髪が入っていたという。

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