昭和20年最後の予科練生 「空への憧れ」消え陸戦隊へ 戦後75年―語り継ぐ記憶

2020.08.25
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田辺海兵団にいたとき、米軍の航空機「グラマン」に追われたこともあったと語る大井さん=2020年8月19日午後零時16分、兵庫県丹波市春日町黒井で

終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は予科練生だった大井康三さん(92)=兵庫県丹波市春日町黒井。

1945年(昭和20)4月、海軍の航空兵を養成する「海軍飛行予科練習生」(予科練)として、奈良県天理市にあった奈良海軍航空隊に17歳で入隊した。終戦の年、最後の予科練生だ。幼いころ、出身地・兵庫県氷上郡(現丹波市)の黒井駅で羨望のまなざしで見た予科練の「七つボタン」の制服に袖を通したものの、物資不足著しく一度の訓練飛行さえなく、陸上戦闘部隊として終戦を迎えた。

昭和3年3月生まれ。6人きょうだいの次男で軍国少年だった。「軍に行けば、食いっぱぐれはないと思っていた」と話す。

地元の尋常高等小学校卒業後の約1年間、氷上郡氷上町新郷の赤井野原野にあった陸軍グライダー(滑空機)訓練所に通った。「空へのあこがれ」は強まるばかりで、予科練を志願することにぶれはなかった。昭和19年、同郡柏原町で行われた入隊検査を受けた。

予科練時代の大井さん

当初、予科練は年間200人程度の難関と、一種のエリートだったが、太平洋戦争が始まると大増員され、同期は全体で数万人が入隊した。

入隊後、食事の席を共にした上官は、手を付けることなく席を立つことが多かった。「きっと食事の時間までに、いろんなものを食べてきていたのだろう。自分も早く進級したいものだと思っていた」と振り返る。一方で、航空兵の卵だった予科練は重宝されたとも感じており、「割と上等な鶏肉を食べることができた。食事には困らなかった」と話す。

ある日、自身の進路を上官から問われた際、陸上戦闘部隊(陸戦隊)を希望した。その頃には、「空へのあこがれ」は失せていた。「あの時期、航空兵になることは特攻に行くことだと理解していた。軍に入った以上、命のことは頭になかったが、今思えば飛行機に乗ることが怖くなっていたのかもしれない」と語る。

入隊から1カ月ほどたち、突然「汽車に乗れ」と指示された。同じ班だった30人ほどで乗車し、窓は日よけを下ろされ、風景を見ることは許されなかった。「どこへ連れていかれるのか」と不安だったが、和歌山県田辺市に到着。配属先は「田辺海兵団」だった。

海兵団では、対空機銃の射手になった。弾の補給係などを含め3人体制を組み、照準器で狙いを定め上官の指示で引き金を引く。ただ、訓練でも一度も実弾を発射したことはなかった。

7月にあった大阪大空襲の際、田辺の空を敵機が舞った。初の実戦。発射体制に入ったが、別の射手はしきりに撃っていたものの、遠くで自在に飛び回る敵機を見て「こんなもん、本当に当たるんやろか」とはなはだ疑問に感じたという。

数日後、田辺海兵団が爆撃を受け、施設の多くが焼失。同期らと近くの寺に移ることになり、以後、訓練はなくなった。

「連合軍が海岸から上陸するらしい」といううわさが流れ、海兵団で「斬り込み隊」を編成することになった。軍刀を所有していなかったが、「軍から連絡を受けたという母と姉が、汽車を乗り継ぎ、どこで調達したのか数日後に軍刀を届けてくれた」と話す。

2人とは、駅近くの面会所で会った。「家族は元気か」「黒井川沿いの桜は今年もきれいに咲いていたか」などと問いかけた。イワシ寿司なども持ってきてくれた。「また会えたことが、どんなにうれしかったことか。戦中で一番忘れられない出来事」と目を細める。ただ、「ぜいたく品を食いやがって」と思われたのか、翌朝、上官から町を走らされたという。

8月15日、玉音放送を聞いた上官から、「敗戦したらしい」と聞かされた。「絶対にうそだ」「だまされるんじゃないぞ」と仲間とげきを飛ばし合い、軍刀で竹を切って米兵を殺す訓練を続けた。

それでも日を追うごとに情報が入り、敗戦は事実と分かった。胸に去来したのは「これから何をして生きていこう」という不安だけだった。

毎年8月が来ると、予科練時代に撮ってもらった若き日の写真を持ち歩く。若さに満ち溢れ、血気盛んだった青春時代の元気をもらうためという。「私自身は幸い、怖い目には遭わなかったが、戦争があったという事実を後世に伝えたいと思いを持ち続けている」

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