謎の手彫り地蔵ずらり 名は「公園」も誰が造った? 正体は「あの武将」ゆかりだった

2020.08.19
ニュース丹波市地域地域歴史

風雨に耐え苔むしているものの、柔和な表情を浮かべる手彫りの地蔵。地元住民によると、一帯はマムシが多い場所。一部の石灯籠は崩れており、近づくと危険な所もある=2020年7月8日午前10時37分、兵庫県丹波市春日町下三井庄で

山道に手彫りの地蔵ずらり―。兵庫県丹波市春日町下三井庄の「春日総合運動公園」そばの山裾に、知る人ぞ知る「地蔵公園」と名がついた不思議なスポットがある。苔むしているものの柔和な表情を浮かべた手彫り地蔵のほか、既製品の石灯籠や地蔵が訪問者を山にいざなうように並べられている。その数70体以上。いつ、だれが何のために造った公園なのか。調べを進めてみると、地域や歴史を愛する一人の男性が自費を投じ、明智光秀の「丹波攻め」で亡くなった人々の霊を慰めるために開園した公園だった。

地蔵公園の入り口。「古路地」(ころち)は、主に地元住民が使う土地の名前

「本尊」は不動明王?70体以上の地蔵たち

総合運動公園内の「春日レジャープール」の西側の山裾。生い茂る草をかき分けて進むと、「古路地 地蔵公園」と刻まれた石碑が据えられている。脇の山道に足を踏み入れると、木製の看板が朽ちて倒れている。この公園の由緒が書かれていたと思われるが、文字を読むことはできなくなっている。

山道沿いに、高さ20センチほどの手彫り地蔵がずらりと並ぶ。石材店で製造されたと

山道のいたるところに鎮座する手彫り地蔵

みられる石灯籠や地蔵も多く、30メートルほどに渡って鎮座している。

「本尊」の不動明王像。高さは1メートルほど

歩を進めると、やがて現れた高さ1メートルほどの不動明王像にはっとさせられた。険しい表情で周囲ににらみを利かせているようにも見える。

登山口の石碑の足に、「平成五年八月 施主 岡田好一」と彫られている。比較的新しい公園のようだ。これを手掛かりに同地区の古老、松岡緑さん(94)を訪ねたところ、公園を造った岡田さんはすでに亡くなったことを教えてもらった。「息子さんに聞けば詳しくわかるで」とのことで、調べを進めた。

お祭り時に立てた旗を懐かしく眺める岡田龍雄さん

地域住民が明智光秀の「丹波攻め」霊供養に造園

岡田さんの息子・龍雄さん(68)=同市=によると、岡田さんは2007年に87歳で亡くなった。公園は岡田さんが地域の協力を得ながら数年がかりで造り上げたもので、「使命感」に駆られて完成させたという。

農家だった岡田さんは、還暦のころから地域の歴史を調べ始めた。自宅そばに詩人・深尾須磨子の生家があり、須磨子を慕って訪れる人に観光ガイドとして案内していたという。やがて歴史の調査は農閑期のライフワークになり、調べた成果を何冊も書き残している。

岡田さんが残した記録を読み進めると、戦国時代、光秀による丹波国平定戦「丹波攻め」の際、同市内の神池寺が焼き討ちに遭い、多くの僧兵らが春日町下三井庄の谷で命を落としたと、地域に伝わっているという。この伝承や、近くで鉄分を含んでいるとみられる赤っぽい水がわくことが理由なのか、一帯は地元で「血の尾」と呼ばれているという。

悲劇の場所「血の尾」は、岡田さんが所有していた山のあたり。龍雄さんは「地域住民として、この霊を鎮魂しなければと思ったのではないでしょうか」と語る。岡田さんは、地元の森林同好会などにも協力を得ながら整備を進め、山道の脇には地蔵や石灯籠を並べた。地蔵は地域住民にも彫ってもらい、よだれかけを提供してくれる人もいたという。公園造りを手伝った龍雄さんは、不動明王像を据えたときのことを覚えていると言い、「『重たいものを運ぶときは心を一つにせなあかん』としかられました」と頭をかいた。

完成後は大勢の人が参拝し、年に一度はお祭りの日を設けた。「延命地蔵尊」と染められた旗を道沿いに立て、訪れる人を迎え入れていたという。龍雄さんは「お祭りと言っても、特別なことはしなかった。父の都合の良い日に設定していたから、毎年違う日でした」と笑う。10年ほどはお祭りをしていたという。「父にとって、公園造りは日々の「張り合い」だったのかもしれない。父の死後、管理ができていなくて大変申し訳ないが、なんでもコツコツ作り上げていった父を尊敬している」と話している。

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