一人帰り道機銃掃射 米兵「ニヤリ」はっきりと 戦後75年―語り継ぐ記憶

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玉音放送が流れた日を回想し、「抜けるほど真っ青な空と、白い入道雲が忘れられない」と語る松田さん=2020年9月11日午後零時2分、兵庫県丹波篠山市味間新で

終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は松田千栄子さん(84)=兵庫県丹波篠山市味間新。

「戦争って嫌ですよ。でも、今の若い子からしたらそうでもないんかなあ」。そう言って、当時に思いをはせながら語り始めた。

1936年に大阪府大阪市北区梅田で、縫製業を営む松田家の4人きょうだいの末っ子として生まれた。

次男の兄・静雄さんは20歳のころ、広島県の「大竹海兵団」に入団。アリューシャン列島方面で戦死と認定された。「曲がったことが大嫌いで人情に厚かった。『チビ』と呼ばれてかわいがってもらった」。静雄さんが運転する自転車の後ろに乗り、2人でよく淀川を訪れた。

43年1月、静雄さんのもとに召集令状が届いた。列車で呉へ赴く静雄さんを家族総出で大阪駅で見送った。出征兵士を送る歌を歌い、日の丸が描かれた旗を目いっぱい振った。「当時は戦争に行くことが偉いと思っていたけれど、今思えば深刻な出来事だった」

千栄子さんは同年4月、大阪市曽根崎国民学校に入学。学校では空襲による火災に備える訓練があった。校舎は鉄筋3階建て。教室がプールに一番近い1年生がバケツで水をくむ。その水を、階段一段ずつに立った児童に渡していくが、案の定、踊り場は水浸しになっていた。子どもながらに「なんでこんな無駄なことするんやろ」と疑問を抱いた。

用を足そうとトイレに向かったある夜の9時半ごろ、窓からB29の米軍機が見えた。日本軍は米軍機に向けてサーチライトを当て、高射砲を放ったが、米軍機まで半分も届かず。それを見て、「日本は負けるんちゃうやろか」と思った。

ある日、けがの治療のため、近所の病院を訪れた。治療を終え、一人で帰路についたところ、空襲警報が鳴った。すると、米軍の戦闘機が千栄子さん目掛けて下降してきた。「距離、地上高共に2メートルほどの眼前に迫った」。学校で教えられた通り、瞬時に身をかがめたその時、米軍兵2人が乗った戦闘機から10発ほどの機銃掃射を受けた。全弾が外れ、九死に一生を得た。外れた弾が背面の壁に当たり、足元に転がった。目を開けると、ニヤリと笑う米軍兵の顔がはっきりと見えた。腹を立てた千栄子さんは飛び去る戦闘機に、「あほ!ばか!」と叫び、あかんべをした。「おそらく向こうも実際に弾を当てる気はなく、『小さな女の子を驚かせてやろう』という気持ちぐらいだったのでは」

通学路の途中には、日本軍が戦利品として放置していたという、撃墜された米軍機があった。機銃掃射を受けた帰り道、米軍機の機体をぼかんと叩いて帰った。

機銃掃射を受けた話を聞いた父は、千栄子さんの祖父母、両親と共に兵庫県丹波篠山への疎開を決断。小学2年時に、篠山国民学校(現・篠山小学校)に編入した。編入初日、クラスメートが「こんなん背負って学校行くんか」とランドセルに興味を示し、近寄ってきた。プリーツのスカート、革靴、えんぴつのキャップも物珍しそうだった。篠山の児童たちは皆、もんぺにわら草履という質素な格好。2カ月後に尼崎から数十人の児童が集団疎開してくるまでは、冷たい視線を浴び続けた。

8月15日、ラジオから玉音放送が流れた。ラジオを持っていない近隣住民ら10人ほどが集まり、千栄子さんは父から「子どもは遊んどり」と外に出された。しばらくして、ふと見るとラジオを聴いている住民たちが一様に涙をこぼしていた。家に入ると父がつぶやいた。「日本は負けたんや」

「抜けるほど真っ青な空と、白い入道雲が忘れられない。今でも、『あの日はこんな空やったなあ』と思い出すことがあります」と回想する。

「油や鉄など、物資がない日本が戦争をしても国民は決して幸せにはならない」と語気を強める。「当時を知らない人に向けて何を言っても伝わらないかもしれないけれど、戦争だけは絶対にだめ」

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