戦地知らない銃後の子 食糧増産、農作業の毎日 戦後75年―語り継ぐ記憶

この記事は約3分で読めます。

第二次大戦中の幸世国民学校のようすを思い出す芦田さん=2020年9月10日午後零時15分、兵庫県丹波市氷上町鴨内で

終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は芦田三千丈さん(87)=兵庫県丹波市氷上町鴨内。

幸世国民学校6年のときに終戦を迎えた。「私も同級生も、戦場に行っておらず、本当の戦争を知らない。銃後の生活のような話をさせてもらいます」と、静かに語り始めた。

昭和17、18年ごろまでは良かった。真珠湾攻撃成功の後は、地元に10ある隣保それぞれで祝宴を開いた。手を尽くして入手したのだろう。酒もあった。

村の入り口に、日の丸を中央に掲げた、杉で作ったゲートがあり、拝んで通った。村に翼賛会があり、国防婦人会があり、在郷軍人会があった。

国民学校では食糧増産のため、一日中、農作業の毎日だった。運動場は畑。女子は、河川敷を開墾し、サツマイモを栽培。男子は雨以外は、学校から在郷軍人が栽培しているサツマイモ畑まで下肥を運ぶのが日課だった。3キロほどの道のり。身長順に2人1組で棒を担いで桶をぶら下げ、ちゃぷんちゃぷんと音を立てながら運んだ。「こっちは慣れたもんやけど、都会から疎開してきた子たちは、臭い、嫌や、と言うてた」。帰りは、(戦国時代に活躍した)赤井直正が通ったとされる峠「勝坂」を通って近道。1度だけ、教師が「持てるだけ持て」と、サツマイモを持ち帰ることを許してくれたときも、見つからないよう「勝坂」から帰った。

1学年上の男子は、連日炭焼き。先輩が焼いた炭を炭俵に詰め荷車に積み、男子1人女子2人の3人1組で駅まで運んだ。片道2時間はかかる道を、荷車の車列をつくり、頻繁に通った。汽車が見えると「万歳、万歳」と繰り返した。

勤労奉仕ができない悪天候の日に教室で勉強することが稀にあった。教師が筆に水を含ませ、黒板に字を書く。「乾くまでに覚えろと言われてね」。雨の日は、下駄の上に草履をくくりつけた自作の高下駄で登校した。長靴などは配給。1年に1度、学級に2足ずつの割り当て。当選者はくじ引きで決めた。

米、麦、大豆、サツマイモ、何を栽培しても供出させられた。供出するために栽培していた。「どこの家もやっていたと思うけれど、内緒で自家保有していた。うちは、米と麦を隠していた。水車小屋に精米に持って行くとバレるから、家でこっそりついていた。家でも食べるし、母は困っている人に分けてあげていた」

終戦間際に、氷上町の田んぼに米軍機が不時着した。教師に引率され、全校生で見に行った。間近で見たことがある飛行機は、赤井野(氷上町新郷)の滑空訓練所の木製グライダーぐらい。空の高いところをB29が飛んでいたが、見上げるだけ。戦地でない丹波で、ゼロ戦など帝国陸海軍の軍用機を見る機会はなかった。初めて見る金属の機体に「これが空を飛ぶのかと、珍しがってみんな喜んでいた」

10軒の隣保で唯一ラジオを持っていた家の人が、隣保中に知らせてくれ、正座して玉音放送を聞いた。「負けると思っていないし、初めて天皇さんの声が聞けるので、うれしいばっかりやった」。誰も「負けた」と言わなかった。雑音が多く、何を言っているのか理解できなかった。どうやって敗戦を知ったのか、覚えていない。「これから先、日本はどうなるんやろうと案じた。同時に、兵隊に行かんでいいんや、とホッとした」

4歳の時に父が亡くなり、母と2人の姉と自分。「使役」という日役や、割り当ての当番は容赦なく回って来て、母を助け出役した。家から男手が無くなることなく、終戦を迎えた。

子ども2人、孫は6人、ひ孫も今のところ3人生まれた。姉との年齢差は9歳。「姉の後すぐに生まれていたら、自分も志願して戦地に行っていたかもしれない。戦争は怖い。そして、その本当の怖さを、私は体験していない」

タイトルとURLをコピーしました