兄の戦死に号泣した母 「戦争はもう絶対に嫌」 戦後75年―語り継ぐ記憶

2020.09.07
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戦死した兄の写真や、篠山練兵場のことを伝える新聞記事を前に、当時の記憶をたどる山口さん=2020年8月26日午前11時28分、兵庫県丹波市氷上町新郷で

終戦から75年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は山口八重子さん(84)=兵庫県丹波市氷上町新郷。

昭和11年(1936)、同市氷上町稲畑に6人きょうだいの末っ子として生まれ、5人の兄がいる。上の3人が戦地へ行き、長兄と次兄は戦死した。5番目の兄とも9つ離れており、兄たちとはほとんど一緒に暮らしていないが、まだ小さかったころ、両親と一緒に、兄たちがいた練兵場を訪ねたときの記憶がある。

次兄は、現在の同県丹波篠山市郡家にあった篠山練兵場で訓練を受けており、両親と3人で何度か面会に行った。「戦地に行く直前だったと思うが、軍服で足にゲートルを巻き、白い手袋をはめて、片膝を立てて待っていた姿をはっきり覚えている。鉄かぶとには、敵に見つからないためか、つるが巻かれていた」と回想する。

陸軍篠山練兵場の正門跡。「歩兵第70連隊」など3つの石碑が建っている=2020年8月26日午後零時10分、兵庫県丹波篠山市郡家で

近くに、兵たちが立ち寄る茶店がぽつんとあり、そこで会うこともあったという。直接、物を渡すことはできなかったので、家で作った焼餅やかき餅をこの店に預けておいたという。「兵隊さんたちの息抜きの場だったのでは」と山口さん。

長兄は、大阪の練兵場にいた。面会の日は、山口さんの上着の裏に、焼餅などを縫い付けて持って行った。「もし見つかったら、私のおやつだと言うためでした」

兄たちからは、まだ小さかった八重子さん宛てに、毎日のようにはがきが届いた。「お父さんお母さんの言うことをよく聞いて、勉強をしっかりしなさい」が決まり文句だったという。

長兄が戦地に行く前、大阪の親戚から「トロッコで近くを通るから見送ってあげて」と連絡があり、1泊して大阪まで行った。両親と3人、線路脇で日の丸を振ったが、兄の姿は見えなかった。「あの時、どんな思いでトロッコに乗って戦地に行ったのか。兄の気持ちを思うと、一番悲しい思い出です」

母は、兄が召集された日から毎朝、無事を祈って近くの神社にお参りした。雨の日も雪の日も、何年も、欠かさなかった。それだけに、戦死の公報が入ったときは、「仏も神もあったもんじゃない」と地団駄を踏み、柱にもたれて泣いたという。「その姿を見て子どもなりに涙をもらいました」

細かい記憶はないが、その後、中学校の校庭で合同の葬式があり、「海行かば」が歌われたことを覚えている。

3番目の兄は、満州に派兵されたが、体を患って復員した。家に戻ったとき、兄たちの戦死にショックを受けないようにと、遺影があった仏間の戸を閉め、玄関近くの部屋で迎えた。

国民学校では、学校の校門近くに来ると、集団登校の上級生が「歩調を取れ」と号令をかけ、足並みをそろえて校門をくぐった。わらで作ったチャーチル英首相とルーズベルト米大統領の人形を「えいや」と、竹の棒で一突きしないと校舎へは入れなかった。

7反ほど米を作っている農家だったが、供出しなければならなかったため、家では代用食が多か
った。「作っているのに食べられない。大豆と混ぜたり、雑炊のように野菜をいっぱい入れたりしたものを食べていました」

砂糖は手に入らない時代。小麦粉と野菜を混ぜ、人工甘味料を入れて焼いたものも、おやつや代用食として食べていた思い出がある。竹のごはんかごの縁についたご飯粒を、天日に当てて乾燥させ、炒ってしょうゆで固めたおやつがおいしかった。

服は、地面に伏せたときに目立たないよう、タマネギの皮や草で染めていた。空襲警報のサイレンが鳴ると、部屋の電球に黒いきれをかぶせて明かりを隠した。

家族の死、食糧難、不自由な生活―。「戦争はもう絶対に嫌」。戦時中に思いをはせ、山口さんは語気を強める。しかし、今の若い人や子どもたちに戦時中のことを自ら話そうとは思わない。

「『欲しがりません勝つまでは』のスローガンのもと、何でも我慢し、戦争の渦に巻き込まれて育った私たちとは、世代が違い過ぎる。戦争はしてはいけないとは言えても、あの時代の雰囲気を知らない人に、分かってもらうのは大変なことだと思います」

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