信濃が源流の「丹波芦田氏」 足利高氏の旗揚げに参じ 光秀も迎え撃つ【丹波の戦国武家を探る】(3)

2020.10.24
歴史

丹波芦田氏の「三つ雁」紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

旧丹波国氷上郡(現・兵庫県丹波市)の北部(現・同市青垣町)にあった芦田庄を領した国衆に芦田氏がいた。伝によれば、保元三年(1158)、源満実の子・井上判官家光が故あって丹波国芦田庄へ流され、「芦田」を名乗るようになったという。

 

 

中世の系図集『尊卑分脈』には、源頼季が信濃国高井郡井上庄に居住して井上氏を称したとあり、その子満実より時田・須田・米持らの名字が分流して信濃源氏とよばれる武士団を形成した。系図の記述をうのみにはできないが、満実の子に井上五郎家光がみえ、芦田氏が信濃国を源流とする武家であったことは信じてよさそうだ。

加古川を隔てた沼集落から見た東芦田(小室)城址

文治元年(1185)、平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を開くと、家光の子道家は丹波半国の押領使に任じられた。以後、代々が丹波半国の押領使に任じて芦田庄を見下ろす吼子尾山に東芦田(小室)城を築き、庄内の栗栖野などに一族を配して在地領主化した。「元弘の乱」(1333年)に際して、久下・余田氏らと共に足利高氏の旗揚げにはせ参じた。

その後、芦田八郎金猶なる人物が諸記録に現れるが多分に伝説的であり、芦田氏の動向は明確ではない。とはいえ、応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』に蘆田氏の名字と幕紋「瞿麦」が収録され、丹波守護・細川氏に属する有力国衆の一人であった。

芦田氏の家紋について『丹波志』に「丸の内に三つ雁金」「瞿麦」「二つ引」とあり、いまも丹波に分布する芦田家では「三つ雁」紋が多用されている。「雁」は中国・漢の時代の蘇武の故事にちなんで「幸せを運ぶ鳥」として尊重され、家紋に採用されたものである。信濃井上氏の家紋も「雁」で、芦田氏と井上氏とが同族関係にあることを暗喩している。

城址北尾根を遮断する大堀切

戦国時代になると境を接する佐治庄の足立氏と矛を交えるなど勢力の保持に努めた。弘治元年(1555)、氷上郡一円に勢力を拡大する赤井・荻野一族と香良で合戦に及び敗戦、赤井氏に従属するようになった。

天正三年(1575)明智光秀が丹波に兵を進めると、荻野直正に属して光秀軍を迎え撃った。天正七年、但馬から羽柴秀長が丹波に侵攻、小室城によって防戦したが力およばず落城、中世武家としての歴史に幕を閉じた。

小室城 別名東芦田城、吼子尾山(標高519メートル)の頂上に残る遺構は、山頂に主郭をおいて尾根筋に小曲輪を段状に設けた連郭式の古式な縄張である。城址へは山麓にある胎蔵寺そばより山道があり、1時間余で登ることができる。

田中豊茂(たなか・とよしげ) ウェブサイト「家紋World」主宰。日本家紋研究会理事。著書に「信濃中世武家伝」(信濃毎日新聞社刊)。ボランティアガイドや家紋講座の講師などを務め、中世史のおもしろさを伝える活動に取り組んでいる。

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