「自分認め好きになって」 タレントの副島淳さん いじめも「発想の転換」で自分変える

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自身の人生を語る副島さん=2020年11月29日午後1時58分、兵庫県丹波市春日町黒井で

兵庫県丹波市でこのほど、「PTCA活動実践交流大会・青少年育成研修会」(同市PTA連合会主催)が開かれ、タレントや俳優などで活躍する副島淳さん(36)が、「いじめにあった僕がバスケに出会いタレントになった今」と題し講演した。日本人の母とアメリカ人の父のハーフとして生まれ、幼少期は容姿を理由にいじめを受けたことや、母や恩師の言葉、バスケットボールとの出合いなど、自身の人生を語った。要旨は次の通り。

東京都の蒲田で生まれたが、父親は見たことがなく、母と祖母と3人で暮らしていた。5歳くらいまでは、自分の肌の色がみんなと違うことは考えたこともなかった。

母親が再婚し、8歳の時に妹ができた。新しい父親は日本人、妹の肌の色は自分と違った。妹ができたことはうれしかったが、幸せは長く続かなかった。その父親は酒を飲んでは暴れる人で、母と僕に暴力を振るった。

おびえる毎日が続き、小学4年生の時、僕と母と妹で家を出る決心をした。暴力を振るった父親の母が手を差し伸べてくれ、「息子とは縁を切るからうちに来なさい」と言ってくれた。千葉県に移り住んだが、ここでいじめに遭った。

転校先の小学校は小さく、1クラスしかないような学校。近くに団地があり、保育園から顔なじみの輪ができ上がっていた。僕は好奇の目で見られ、「肌の色が違うぞ」「髪の毛がクルクルパーマだ」「まっくろくろすけだ」とも言われた。

肌の色や髪質の違いを言われることに“免疫”がなかった。ばい菌扱いされ、たまたま僕に触れた子は、半ば半狂乱になって逃げて行った。耐えきれなかった。

やがて身体的な暴力になった。トイレで上から水をかけられたり、サッカーゴールの前に立たされボールをぶつけられたりした。6年生までは地獄のような日々だった。

最初は「やめて」と言っていたが、途中で抵抗しなくなった。何をされても眉一つ動かさず、ただ受けるだけ。抵抗しないと、相手も飽きてくれる。やがて僕は人と話をしなくなり、自己表現をしてはいけないと思っていた。

一方で、たまったフラストレーションを母親にぶつけた。「なぜ俺を産んだんだ」「無責任に産んでんじゃねーよ」「俺の肌と同じ色の父親を呼んで来い」と、ナイフのようにとがった言葉をぶつけた。本当にひどい。でも母親しかぶつける相手がいなかった。

つらかったと思うが、母は強かった。僕の言葉に「ぜいたくなことを言っているよ。おまえは特別な存在だから、みんなに注目される。立っているだけで目立てる。ものすごく良いことじゃないか」と言われた。

中学生になると、いじめっ子たちはサッカー部や野球部に入った。僕は身長が高かったので、バスケ部に入部した。このころ、知識がついてきたこともあり、人と話せるようになった。「肌が黒い」と言われても「日焼けサロンで寝ちゃった」、髪の毛のことを言われると「理科の実験で爆発した」などと自虐的に返せるようになり、友人が増えた。

発想の転換が自分を変えた。「いじめられている」が「いじられている」とマインドを変えることで、いじめっ子とも会話できるようになった。いつの間にか輪の中心に押し上げられるようになった。

2年生の時、バスケ部に新しい先生が赴任した。和気あいあいとした部活を体育会系の空気に変えた。先生は僕を見て、「俺がバスケでおまえの人生を変えてやる」と言った。

退部者が出るほど厳しかったが、チームのエースになり、自己肯定感が生まれた。自分で自分を認めたり、好きになったりしないと生きていくことはつらい。他者から認められると、人生は明るくなる。

ただエゴイストになる自分もいた。「勝つこと」を目標にすると、仲間に厳しいことを言って傷付けたこともあった。先生からは「強いだけではだめ。みんなが一つの目標に向かわないと」と教えてもらった。人がいじめる側に回るタイミングは分からない。人を傷付けることはいけないと分かっていたのに、その場の空気や環境で気付かぬうちに変わってしまっていた。些細なことで人は傷付き、命を落とすこともある。先生に助けてもらったと思う。

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