近鉄「レジェンド」の今 首位打者やチーム支えた裏方 ”後輩”中森投手に送る言葉とは

2021.01.03
ニュース丹波市丹波篠山市地域地域

兵庫県丹波地域出身で日本野球機構(NPB)でプレーしたプロ野球選手は過去3人いる。同県丹波篠山市の篠山東中出身の中森俊介投手は4人目。同時期に近鉄バファローズに在籍し、名将西本幸雄監督のもと、1979、80年のリーグ連覇をした黄金期のチームを、中心選手、用具係としてそれぞれ支えた佐々木恭介さん(72)=丹波市青垣町佐治出身=と、三宅成幸さん(73)=丹波篠山市宮田出身=にプロ入り前の歩みなどを聞いた。

78年「パ」首位打者の佐々木恭介さん

4番打者として活躍した佐々木さん(「感動の軌跡―大阪近鉄バファローズ50周年記念誌」より)

1978年に3割5分4厘で首位打者を獲得し、球史に名を刻んだ佐々木さんは、71年のドラフト1位。11年間プレーした。3割を4度マーク、2度ベストナイン(外野手)に選ばれた。

理髪店を営む父が聞くラジオで野球が好きになり、長嶋茂雄に憧れた。

小学校に上がる前か1年生の頃、店に立ち寄る柏原高校青垣分校(定時制、現在の氷上西高校)の高校生が、公民館の広場でノックをしてくれた。近所の子を集めた草野球チームで、他村のチームと放課後、佐治小の運動場で対戦した。

佐治小5年の時に、巨人がドジャース戦法のダウンスイングを取り入れているとラジオで耳にした。本はなく、指導者もいない。「構えたところから真下に振り下ろす」と自分なりに解釈した。それができるようになると、壁に近づき、できるだけ体の近くをバットを通す練習をした。「これが後の西本監督の打撃理論にぴったりはまった」

同じ頃、父が裏庭に、杭でタイヤを挟んだ打撃練習用具をこしらえてくれた。青垣中卒業まで、素振りとタイヤ叩き各50回を日課にした。「父は野球に詳しくなかったけれど、『叩いたときに、はね返されんように押さえんとあかん』と言っていた。ヘッドの強さを生み、押し込む強さをつけるええ練習やった」

柏原高校時代は捕手。1年5月の部活中に迎えた入部後初打席で、エースから場外特大弾。「なんやコイツは」と驚く3年生の声が聞こえた。

高校2年の姫路遠征で、後の野球人生が開けた。ダブルヘッダーで4本塁打。うち2本が左中間へのランニングホームラン。ノンプロの強豪、新日鉄広畑(姫路市)の監督の目に留まった。監督に「強肩俊足(100メートル11秒台半ば)の後輩」の視察を勧めたのが、柏原高校が春のセンバツ甲子園に出場した時の中心選手、三村稔さん。当時、広畑の主将だった。

東京六大学野球への憧れがあったが、強く誘われ入社。都市対抗野球大会で優勝を目指すチームの練習は厳しかった。

70年の都市対抗に、鐘淵化学(高砂市)の補強選手として出場。ドラフトで東映フライヤーズに8位指名されたが、在阪球団でなく、入団を断った。その年、広畑の高橋二三男外野手が、西鉄ライオンズの1位指名を受けた。「広畑で結果を出せば、上位指名される」。プロがぐっと近くに感じられた。

翌71年の都市対抗で広畑を優勝に導き、大会最優秀選手賞を受賞。東映と近鉄を除く10球団から声が掛かった。熱心だったのが阪神とヤクルト。「阪神が、山本和行を1位で指名する。2位指名だが契約条件は1位と同じにすると人づてに聞いていたので、阪神に行くもんだと思っていたら、近鉄に1位指名された」

ある時、藤井寺球場(藤井寺市)の3塁側ベンチ裏に球拾いに行った。見覚えがある相撲場があった。青垣中時代、近畿相撲大会団体戦で3位になった時の会場だった。「縁があったと思ったね」

1年目の開幕からスタメン。毎晩、岩本尭監督宅で午前1時ぐらいまで素振りをした。「期待されてるんやと、意気に感じた」。その年の8月はじめに左足ふともものひどい肉離れをし、シーズンを棒に振る。膝が曲がらず引退が頭をよぎった。野球を続けたい一心で思いついたのが、坂道を下れば自然に足が出るだろうという破天荒な自己流のリハビリ。サポーターを膝と肘につけ転倒を重ねるうちに、膝が動くようになり、2年目のシーズン途中で復帰。3年目に就任した西本監督のもとでリーグを代表する打者に成長した。

「野球に育ててもらった。何か野球で恩返しを」と、大和高田クラブを率い、日本一を目指す佐々木恭介さん=2020年11月27日午後2時29分、大阪府堺市で

2016年から社会人野球のクラブチーム「大和高田クラブ」(大和高田市)で監督を務める。かつて自身が取り組んだ「タイヤ叩き」も練習メニュー。「大学上がりの選手に叩かせても、はね返されるよ」。いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

【中森投手へのアドバイス】パ・リーグの打者は力があり、初球から振ってくる。1球目から150球目まで最高の球を投げ抜く力がいる。ソフトバンクの千賀投手の直球とフォークのように、速いボールともう1つ、2つ飛び抜けた球種が必要だ。プロの投手は、これまで見たことがないレベルの選手ばかり。甘い世界ではない。早く1軍で投げたいだろうが、焦らず体をつくるところから。地に足を着け、ひたむきに。

裏方30年の元選手・三宅成幸さん

約30年間用具係としてチームを支えた三宅さん(「感動の軌跡―大阪近鉄バファローズ50周年記念誌」より)

三宅さんは3人きょうだいの末っ子。西紀第1(現・西紀)小学校時代は、よく川内(現・西紀)中学校グラウンドで野球をして遊んだ。川内中学校時代は野球部に入部。足が速く学校の代表で陸上大会にも出場した。野球部では100メートルほど離れた校舎をめがけて打球を飛ばす競争をしていた。「自分が何枚もガラスを割ったので防球ネットが張られた」ほど長打力があった。

酒造会社に勤めていたおじの勧めもあり、酒造りに携わりたく、醸造が学べる氷上農業高校(現・氷上高校)に進学。野球部に入部した。「野球が上手な選手が多かった。練習はそんなに厳しくなかった。好き勝手に練習していた」という。1年生からサードで4番。3年生の春には県ベスト8入りに貢献した。

高校卒業後、野球部のある小西酒造(伊丹市)に入社。「野球人生が終わったら酒造りに携わろう」と考えていた。午前は仕事、午後は野球の練習に励んだ。3年後、会社から「そろそろ野球部を辞めて仕事に専念しろ」と言われたが、1969年、アメリカ2チーム、ベネズエラ、プエルトリコ、ドミニカ、日本の5カ国計6チームが参加する「グローバルリーグ」(1年で消滅)への誘いがあり、小西酒造を退社し、プロとして入団手続きした。海外へ行く前に日本のチームと練習試合をした際に2試合ほど出場したという。リーグの存続が危ない頃、近鉄バファローズから声が掛かり、ドラフト外で1970年に入団。三原脩監督からは俊足を買われ、「足を鍛えろ」とアドバイスをもらった。1年目は2軍で「投手以外はどこでも守った」。71年、1軍での対阪急とのオープン戦で、走者へのタッチプレー時に左手首を負傷。動脈が切れるほど傷が深く、「すぐに治るかなあと思っていたが握力が戻らなかった」

71―73年のシーズンはリハビリと球拾いが続き、復活を目指したが、73年に引退。74年に就任した西本監督のもと、「選手のためになることは何でもやった」。「偉大な西本監督のもとで数え切れないほど勉強した。それが今の中学生への指導に役立っている」と感謝する。

オリックス・ブルーウェーブと統合する2004年シーズンまで約30年間、用具係としてチームや選手を支えた。その献身的な姿は、「感動の軌跡―大阪近鉄バファローズ50周年記念誌」(2000年発行)に掲載された「50の物語」に選ばれ、「裏方人生一筋」の見出しで取り上げられるほど、なくてはならない存在だった。

実績を買われ、05年、リーグ新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルス用具係に就任。旧オリックス、近鉄、新人、外国人などさまざまな選手が入団する中、三宅さんは裏方の「即戦力」として選手たちをまとめた。

中学硬式チーム大阪柏原ボーイズで指導する三宅さん=2020年11月29日午後1時9分、大阪府柏原市で

09年、楽天を退団すると、翌10年に中学硬式野球チーム「藤井寺ボーイズ」でコーチを務め、何人も強豪校に送り出した。昨年9月からは大阪柏原ボーイズの総合統括コーチを務めている。

歴代の近鉄の監督らから教わった指導法を今も生かし続けている。「優しく根気よく指導する」が信条。「選手は叱っても伸びない。おだてなあかん。やりたいようにやらせて、それに盛り付ける。選手のやり方を直したらゼロになる」と強調する。「夢は育てた選手がプロに入ること。それが恩返しだと思っている」

【中森投手へ期待の声】先輩やコーチ、球団など周りにかわいがられたら早く1軍で出場できるやろ。ファンからもかわいがられる選手になってほしい。球場で投げている姿を見に行きたい。

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