「”被災地”から脱皮を」 報道の難しさ知る 兵庫から東北へ10年通う記者 「善意の暴走」も垣間見る【#これから私は】

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震災発生から1カ月が過ぎた当時のまち=宮城県内で(2011年4月撮影)

東日本大震災の発生から10年が過ぎた。直後は1000キロ近く離れた兵庫県丹波地域からも数多くの支援が行われ、現在も東北の人々との交流が続いているケースもある。記者は発生1カ月後に初めて現地に入り、ボランティアをしながらルポを書いた。その後も訪問を続ける中でたくさんの友人ができ、毎年、東北に足を運んでいる。この経験は自身の考え方や記事執筆にも大きな影響を与えた。被災直後、そして、変わっていったまちと人の姿を振り返りたい。

2011年4月、巨大な津波が襲った宮城県を初めて訪れた。復旧への支援はもちろん、丹波地域(丹波市、丹波篠山市)を発行エリアとする新聞社ではあるが、全国、世界中に衝撃を与えた大災害の現場を、丹波で暮らす者の目で見て、伝えさせてほしいと考えたからだった。

◆話すつらさ 記者の仕事に悩む

あの時の記憶は、10年が過ぎても鮮明に思い出せる。家々が立ち並んでいたと思われる沿岸部には、元が何であったか分からないものが至る所に山積みになっていた。マンション4階に刺さった木、ひしゃげた電車や車。水の力が起こしたことだとはなかなか信じられなかった。

目の前に広がる異様な光景とは裏腹に、潮風は悠々とまちを吹き抜け、ウミネコが鳴いていた。人の営みは徹底的に破壊されているのに、自然はいつもと同じ表情だった。

そんなまちでスコップを手にひたすら泥をかき出し、「がれき」と呼ばれた地元の人たちの生活の痕跡を片付けた。

壊されたまちを見ること以上につらかったのが地元の人と話すことだった。ボランティア作業の合間、話をしたいという地元の人は一定数おられた。外から来た人間に思いを吐き出すことで、少しでも気持ちを落ち着かせたかったのかもしれない。

「家族が目の前で津波に持っていかれてね。毎日、捜しに歩いている」「主人が見つかったんだけど、フェンスの高い所に引っ掛かっていて降ろすのが大変だったの」

ただうなずくしかできず、記者という職業を明かすこともできなかった。「話を聞く」から「取材」に変わってしまうからだ。

あの時、地元の人が求めていたのは取材ではなく、ただ、話をすること。もし記者だとわかれば、話をやめてしまうかもしれない。記者という仕事に悩み、こんなに逡巡をしたことはなかった。

◆「みんなに伝えて」 この言葉で書けた

顔なじみになった人に勇気を振り絞って記者であることを告げると、「それなら見ていって」と案内された場所がある。高台の公園に急きょ作られた仮土葬場だった。

朝もやの中、何本もの木の墓標が立ち並び、声を上げて泣いている人、ただ茫然と立ち尽くしている人、想像もできないような悲しみが霧の粒子のように辺りを包み込み、重く沈殿していた。

写真を撮ることをためらっていると、「撮って。そして、帰ったらみんなに伝えてね」。情けないことだが、この言葉がなければ記事を書けなかったと思う。

兵庫県に戻ってから、何度も東北の夢を見た。悲惨な光景だけでなく、「また来てね」と言ってくれた人々の顔も。それから個人で、あるいは市や市社会福祉協議会が出したボランティアバスに乗って、また、高校生たちの交流・支援事業をサポートする役として、ほとんど毎月、東北に通う日々が始まった。「あらぁ、また来たの」と言ってくれる人が増えていった。

◆善意は暴走する 垣間見た現実

「助け合い」「絆」。あのころよく使われた言葉。その通り、地元の人々は助け合い、また、ボランティアなどとも絆を結んでいった。美しく、勇気づけられる出来事がたくさんあり、当時も今も多く報道されている。けれど、そうではない場面に出くわすこともあった。

震災後、物資の配給にきちんと列を作って並ぶ人々の姿が報道された。「災害時にあっても冷静で、礼儀を忘れない日本人」と報じられたが、少なからず物資の奪い合いや避難所内での盗難もあった。

支援活動を行う中で地元の軋轢に悩み、失語症になった友人もいた。また知人の女性は家の修繕に来た業者に料金を支払ったものの、工事には来なかった。料金は法外な額だった。

被災地の内部だけではない。

全国各地から物資が届けられていたが、使い古された衣服もあり、結局捨てられた。また震災直後はともかく、その後も延々と送られてくる物資は無料で配られ続け、営業を再開した地元経済を圧迫した。

ボランティアの多くは被災地のためにという志と礼儀をわきまえた人だったとは思うが、中には津波が襲った後のまちで、住民の前で平然と「汚い」「臭い」と言ったり、ピースサインで記念撮影をしたり。作業を巡って地元の人とトラブルになる人、地元でがんばっている団体の代表者に、「全然ダメ」と見下す発言をする人もいた。

仮設住宅ではボランティアセンターなどを介さないボランティアが突然訪れ、大音量で音楽を演奏し、「がんばって」と呼びかけた。「支援に来てくれているんだから断れない。でも、もう疲れた。ボランティア疲れ」。自治会長の男性が嘆いていた。

「善意は暴走する」。これは何度も被災地に入らないと分からないことだった。

一方、あの時、それらが報道されることでより溝を深めたり、復興の邪魔になるのではないかとも思えたりし、報道の難しさを知った。

◆歩み続ける いつか出会う日まで

いろんなことがあった10年。しかし、まだ10年でもある。

沿岸の一部を除き、見た目はきれいなまちとして再建された。しかし、避難所から仮設住宅、そして災害公営住宅や自力で再建した新居など、被災した人たちの生活は転々とし、そのたび孤独死やコミュニティーの再建など、新しい課題が出ている。

最も仲が良く、現地の住民でありながら、被災者支援や自立活動に取り組んできた友人は言う。

「私たちは今、『被災地』『かわいそうな被災者』という肩書から脱皮して、ふるさとで暮らし、さらによいまちにするためにがんばる一市民になりたい。災害を経験した人が、いろんなことを乗り越え、自分にできることで地域に恩返しがしたいという気持ちが芽生えたときにこそ、復興したと言えるんじゃないかな」

さらに「いつか、亡くなった人たちに出会うときが来たら、目と目を合わせて、『がんばってきたよ』と言えるように、これからも歩み続けていこうと思う」。

この思いを称賛して終わりではなく、これから、それぞれの暮らす場所で、同じ方向を向き、「共に」取り組んでいくことが、よりよいまちを全国につくっていくことになるのではないか。今、そう感じている。

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