空襲で焼け出され丹波へ 打ち砕かれた少女の夢 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

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昨年発行した自分史を見ながら、戦時中の体験を語る竹内さん=2021年8月6日、午後零時13分、兵庫県丹波市春日町野村で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は竹内一代さん(88)=兵庫県丹波市春日町野村。

兵庫県神戸市立宮本小学校6年生だった昭和19年(1944)の夏、両親のふるさと、兵庫県丹波市春日町野村へ縁故疎開した。両親と末の妹は神戸に残り、3歳年下の妹と2人、叔父の元へ身を寄せた。先に疎開していた別の親戚もおり、古い小さな家での5人暮らし。「いつもお腹が空いていた」と言う。

非農家だったこともあり、神戸にいた時よりも食料事情が良くなることはなかった。戦争が激しくなるにつれ、衣、食の配給制度は厳しくなった。特に米はほんの少ししか支給されず、主食として小さなジャガイモやトウモロコシ、油かす、大麦など、飼料のような物が配られた。米は水分の多いさらさらの雑炊にし、少しでもかさ上げするため、学校から帰るとあぜに生えているハコベやオオバコを摘み、細かく刻んで入れた。農家から分けてもらったサツマイモのつるはごちそうだった。

当時の神戸と丹波は、生活環境や習慣、言葉などがまるで違い、転校した黒井小学校では、周りになじめずつらい思いをした。「白い目で見られ、丹波弁も分からない。早く神戸へ帰りたかった」

黒井から平松山へ、毎日のように原木を取りに行く作業があった。1・5メートルほどに切られた直径10センチほどの原木はずしりと重く肩に食い込み、ひりひりと痛んだ。

翌昭和20年(1945)3月。小さい頃からの憧れだった県立第一高等女学校(現神戸高校)を受験するため、8カ月ぶりに葺合区(現中央区)の自宅へ戻った。その夜、神戸は最初の大規模空襲に見舞われ、防空頭巾をかぶって山のふもとまで逃げた。街を燃やす真っ赤な炎と、爆撃機を探すサーチライトの光が「悪夢のような美しさ」として今も焼き付いている。

4月になり、念願の県立第一女学校に入学したが、夢はあえなく砕かれた。

6月5日の朝、学校へ行くため、同居の従姉と玄関を出ようとした時、空襲警報が鳴り、B29爆撃機が飛来。「ザーッという夕立のようなすごい音」と共に焼夷弾を落とした。台所の方でも「バリバリ」と焼夷弾が落ちる音が聞こえた。「はよ火を消そう」と従姉に言うと、「何言うてるの!死んでしまうよ!」と返ってきた。従姉に手を引かれ、山へ、山へと逃げた。

午前中にもかかわらず、辺りは煙で真っ暗。黒い雨が降り、肩から掛けていた白い救急袋に、黒いしみがたくさん付いた。空襲がやみ、山を下りると「街が無くなっていた。びっくりした」。自宅の場所には、風呂釜と石段だけがぽつんと残っていた。幸い、父も無事で、従姉と3人、「命があっただけでよかった」と喜び合った。母と末の妹はこの時すでに丹波へ疎開していた。「家にいたのが1人だったら命を落としていた。従姉は命の恩人」との言葉に実感がこもる。

1時間ほど歩いて灘区の小学校に避難するまでの道すがら、多くの焼死体を見た。焼け焦げて木の根のようになっている遺体もあった。苦しそうにうめいている人も見かけたが、どうすることもできなかった。夜、教室でいすを並べて寝たが、「昼間の光景が浮かんで眠れなかった」。空襲から3日目、丹波へと帰った。

その後も、3時間かけて神戸まで危険な通学を続けた。乗っている汽車が機銃掃射を受けても「絶対に転校はしない」と悲壮な覚悟だったが、学校も1カ月ほど後に夜間の空襲で焼失した。

終戦を伝える玉音放送は家で聞いた。「信じられない」という思いの一方、腹の底では「日本は負けるのではないか」とも感じており、友だちと陰でこっそり話していたのも事実だった。宮本小で一番仲の良かった友だちは、広島に疎開し、原爆で命を落とした。

柏原高等女学校へ転校し、終戦後は「民主主義」という聞きなれない言葉が授業で盛んに出てきた。今までの軍国主義教育とは正反対の内容に戸惑ったが、どこか開放感もあった。進駐軍の兵士が女学校へフォークダンスを教えに来た時には、「たたき込まれていた『鬼畜米英』とはぜんぜん違い、優しそう」と驚いた。「『教育』とは恐ろしいもの」としみじみ語る。

戦後、男女共学になった柏原高校に進学したが、長女の自分が働いて早く両親を支えなければとの思いにかられ、誰にも相談せずに退学した。17歳で従兄を婿に迎えて結婚。困難を乗り越えて力いっぱい生きてきた。

戦争の体験を伝えておきたいとの思いは強い。「世界には今も紛争で苦しむ人たちがいる。若い人たちには、今の生活を当たり前だと思わず、感謝と思いやりの気持ちを忘れずに、平和を大事に守ってほしい」と静かに語った。

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