爆弾と機銃掃射受けながら 手記残した父「平和は多くの犠牲の上に」 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

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父、音蔵さんの手記に目を通す息子の孝三さん=兵庫県丹波市山南町で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は中岡孝三さん(68)=兵庫県丹波市山南町野坂。

「父、音蔵は本当に運が良かった。爆撃や銃撃に遭いながらも負傷することなく、ジャングルでマラリアにかかってもなんとか命をつないで復員した。生き永らえたことに感謝し、亡くなった戦友たちへの供養の思いが、手記をつづらせたのでしょう」

13年前、89歳で亡くなった音蔵さんは、生前、手記「ミンダナオ島の思い出」を書き残していた。復員後、体調不良で2年間の休養を余儀なくされたが、養鶏業をはじめ、キクやユリの栽培に精を出し、87歳まで養護老人ホーム五輪荘の施設長を務めるなど、まるで南方で散った戦友たちの分まで仕事をするかのように、懸命に働いたという。手記の一部を紹介する。(以下、手記より)

音蔵さんの手記「ミンダナオ島の思い出」

1944年4月25日、25歳の時に応召。姫路野砲兵第54連隊補充隊に配属された。朝鮮で満期除隊を迎え、その8カ月後に再び赤紙が届き、元の(54連隊)第7中隊に入隊することになった。

フィリピン・ミンダナオ島の北部カガヤンでは、敵襲に備えていたものの、夜明けと同時に敵機のグラマンが姿を見せ、40、50機による爆弾投下と機銃掃射の攻撃を受けた。あちこちで味方が倒れる中、ヤシの木の根元や民家に身を隠し、攻撃を逃れた。近くで爆弾がさく裂すると体が宙に浮き、生きた心地がしなかった。

45年4月、上陸してきた米軍に向け、山の中腹に築いた陣地から榴弾砲を発射。第1弾が命中するも、敵の応酬は物凄かった。しかし、敵の砲弾も何のその、40発ほど撃ちまくった。

同年7月、敵の戦車の前進方向に向けて放列を敷いた。小銃分隊を指揮することになり、放列の50メートル前方に出た。ところが急に腹痛に見舞われたため、ほかの人に頼み、100メートルほど離れた荷物置き場まで薬を取りに行った。この時に戦闘が始まり、6人が戦死。腹痛がなければ死んでいた。

ジャングルを行軍中、マラリアにかかった。中隊は私を残して、先へ進んだ。熱が下がったため、1人で中隊の後を追い、合流できた時には、少尉が喜び、かゆと最後の馬肉を食べさせてくれた。

その後も行軍は続いたが、食糧は底をつき、サツマイモのつると雑草の芯でしのいだ。疲労で体が弱り、記憶も薄れがちに。杖を突きながら、必死に中隊の最後尾を歩いた。

食糧がないため、中隊は解散し、分隊に分かれて行動することになった。元気な者と病弱者に分けられた。10人ほどいた、私を含めた病弱者も食糧を取りに行かないと餓死するだけ。3人で食糧探しに出た。その途中、歩兵の将校と出会い、日本が降伏したと知らされた。信じることができなかったが、食糧もない状況を考え、指定された時間と場所に向かった。

5時間ほど麻畑で待っていると、米兵と日本人将校が乗ったジープとトラックがやって来た。十数人の投降者と一緒にトラックに乗り、収容所に送られた。

取り調べは日系2世がしてくれた。「心配するな、日本に帰れる」と言ってくれた時には本当に安心した。1カ月ほど病院生活を送ったが、毎日5、6人が死んだ。

71日間の収容所生活を終え、11月5日、帰国船へ。縄ばしごで乗船したが、体力がなくなっていたので登るのにも苦労し、米兵から「早く登れ」と怒鳴られた。

甲板から富士山が浮かぶように見えた。帰って来られたと涙が出た。

神奈川県・浦賀沖に停泊。検疫を受け、上陸が始まった。復員兵舎で1泊し、手続きを済ませると、一日も早く懐かしい丹波へと、大阪行きの列車に乗った。11月23日午後1時、谷川駅に到着し、自宅へ戻った。

後日聞いた話によると、駅では外国人が来たと騒動になっていたという。頭の毛は赤く、目玉がぎょろぎょろで痩せこけ、身長は170センチ近くあったが、体重は12貫(45キロ)しかなかった。実に哀れな復員姿だった。

息子の中岡さんは、「戦争を知らない私たちが、どんなに手記に目を通しても、戦場を経験した者にしか分からない苦しみ、痛みがあると思う。父は、今を生きる私たちに、この平和が多くの犠牲の上に成り立っているのだということを、手記を通して伝えたかったのでは」と話した。

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