目の前で親友が被弾 女子挺身隊で軍用工場へ 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶/兵庫・丹波市 

この記事は約3分で読めます。

10代後半の戦時中のことを振り返る松木美智子さん=2021年8月24日午後1時11分、兵庫県丹波篠山市宇土で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は松木美智子さん(94)=兵庫県丹波篠山市不来坂。

篠山高等女学校を卒業し、10日ほど休みをもらった後、女子勤労挺身隊として北伊丹の軍用工場へ入職した。この頃は米や砂糖、衣類も全て配給制になっていた。「母たちは足りない食料を補うため、大変な苦労を重ねた。私たちの服やもんぺは祖母や母の着物で作ってもらい、女学校に通学していた頃から、げた履きで通学していた」

職場では事務職に就いていた。隣には医務室があり、慣れない機械で指を落としたり、挟まれたりした重傷者が続出していた。食事は、軍用に油を絞った後のトウモロコシのかすに少しの米と麦を混ぜたもので、「とてもまずい」ものだった。近くの焼かれた工場のために炊き出しがあり、事務所総出でおにぎりを作りに行った。「みんな空腹だったので、小さく握っては、まずは自分の口に入れて腹を満たしていた」

仕事が終わって部屋に帰ると、ノミやシラミ、南京虫などに悩まされた。「かゆくて夜も眠れず、ずいぶんつらい思いをした。たまの休みに実家に帰ると、母が風呂場で私を裸にして、全部着替えなければ部屋に入れてもらえなかった。もちろん頭もシラミだらけで、すきぐしですかれ過ぎて、血が出るほどだった」

1年ほどで実家から工場へ通えるようになったが、毎日1時間の列車通勤となり、3日もたたずに空襲にあった。いつも宝塚の手前辺りで列車から降ろされ、近くの畑や林の中で軍機が通り過ぎるのを待った。「不謹慎ながら、青空をバックにB29編隊の銀の機体が朝日にきらめいて飛ぶさまは、目の覚めるような美しさだった」

母が毎日、松木さんを送り出したあと、後ろ姿に向かって無事に帰ってくるよう手を合わせて祈ってくれていたことを、終戦後に聞かされた。「母にとって私は14歳まで一人っ子だったので、余計に思いが強かったのかもしれない」と思った。

B29の次は小型機が工場を襲うようになり、急降下して人を狙ってきた。小型機ゆえ動きが速く、警報が鳴り終わる頃にはもう地上に来ていた。とても仲の良かった友が狙われ、小さい体に数発の弾丸を撃ち込まれて亡くなった。「目の前の出来事で、いまだに忘れられない。機上から狙い撃つ米兵の顔は、しばらく脳裏にこびりついた」

長びく戦争も激しさを増し、弾丸を作るために寺の鐘から、家庭の火鉢、火箸の類いまで、金目の物はみな供出していた。空襲は日ごとに増え、都市部は焼き払われた。「報道ではごまかしきれなくなっていて、もう皆、最後の覚悟は決めていた」

そして終戦を迎えた。「あの暑かった一日はいまだに忘れられない。その夜、父が電灯にかぶせていた黒い布カバーを外し、部屋の隅へ投げつけた。部屋の隅々まで明るくなり、幼い2人の妹は喜んで部屋中を踊り、歩いていたことを思い出す」

今でも胸が痛むのは、いよいよ戦力が尽きて、とうとう大学生の出陣となったこと。「当時の大学は、本当に賢い人しか入れなかった。時々テレビに映る、雨の中の出陣式は、同年代だからか、いまだに涙があふれる。生きて日本の国を動かす人となっていたら、今の日本もずいぶん変わっていたに違いないと思う」

当時を思い起こすうち、戦没者への思いがあふれ出る。「外地で戦死された方々も、できれば1人残らず返してあげてほしい。骨箱に石のかけら1つなんてあまりにも悲しい。どんなに祖国へ、両親のもとへ帰りたかっただろう。この機会に少しでも死んでいった人たちを思って下さる人があれば幸せ」

タイトルとURLをコピーしました