「こんなつらいことない」 2年間のシベリア抑留 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

2021.09.29
地域

「シベリアは人がいられるところではなかった。戦争はもう二度とごめんです」と語る高橋さん=2021年9月6日午後零時12分、兵庫県丹波篠山市向井で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は高橋勝さん(95)=丹波篠山市向井。

日本において、第2次世界大戦が終わったのは1945年8月15日。しかし、極寒のシベリアで厳しい抑留生活を強いられた高橋さんの“戦い”は、終戦日から2年以上も続いた。

5人きょうだいの長男。貧しい家庭だったため、鳳鳴中学校を卒業後、「金がいらん学校に入ろう」と、軍隊の将校を養成する教育機関、陸軍予科士官学校(埼玉県)を受験。競争率20倍という難関を突破、入学した。

服や下着、教科書などは全て支給制。食事は食堂で用意され、月に10円の給料がもらえた。入校式には天皇陛下が行幸され、世界各国から駐在大使、駐在武官らが数多く出席した。

入校当日、階段を上っていると、上級生からいきなり、「のろのろ歩いていて仕事になるか。走って上れ」と、頬をぶたれた。「ここは常識の通らない別の世界のように感じた」と苦笑する。

同校に2年近く通った後の1943年、陸軍航空士官学校に入校。2年間、学科だけでなく、戦術、飛行機操縦などを学んだ。

卒業後、晴れて将校となった高橋さんは、45年3月に明野飛行隊(三重県)へ配属された。しかし、国内では連日のように米軍による空襲が続き、日に日に戦況が悪化していたことから、若い将校の温存を目的に、満州へと移動することになった。

同年4月、勤務先となる満州の「湖南営飛行場」に到着。日本を出た時は桜が満開だったのに、満州では一面が雪原だった。「あまりの気候の違いに驚いた。満州人の臭いがプンプンしていて、経験のない雰囲気だった」

約2カ月間、湖南営飛行場で勤務した後、西部の「老連飛行場」で働いていた。8月9日、ソ連軍が東部の国境から攻め込んできたという情報が入り、飛行場を撤収するため、列車で南下。8月15日、行き止まりとなったハルピンに着き、終戦の日を迎えた。母国敗戦の一報に「負けたとは思えなかった」と、現実をのみ込めなかった。

その後、武装解除が行われた。「『命より大切なもの』と教えられ、毎日手入れをしていたものすごい量の武器が並んだ」。立ち会った中国共産党軍の兵隊は、黒い詰襟の服を着ていて、「日本の郵便配達員のようだった」という。その場にいた軍人全員が整列し、武器を引き渡した。「絶対に日本が負けることはないと信じていたが、この時ばかりは負けたことを実感した」

10月、侵攻してきたソ連兵によって、日本兵は大学の建物に集められた。朝起きると、有刺鉄線が張り巡らされ、銃を持ったソ連兵が四隅の望楼に立っていた。いつの間にか、捕虜になっていた。

日本兵、民間人約50人と共に貨物列車に約1カ月間乗せられ、シベリアへと送られた。「どこへ行くのか、何をするのかもまったく聞かされなかった」。行先の分からない過酷な旅が始まった。

列車の中には暖房設備がなく、風も吹き抜ける劣悪な環境。食料だけでなく、水すら十分にもらえなかった。「下車すれば第一に水を探した。水たまりでもあれば、きれいとか、汚いとかは度外視して飲んだ」

シベリア到着後、毛皮のコート、長靴、1枚の毛布が支給された。高橋さんらは毎日、炭坑内で石炭掘りの作業に従事した。朝、昼、晩の3交代制で、1日8時間労働。採掘のため、石炭にドリルで穴を開けて火薬を詰め、爆破していった。坑道の天井が崩れないよう、木が組まれていたが、時折、落盤事故が発生。生き埋めになり、命を落とした人もいた。

食事は1日3食。燕麦のかゆとスープの日が多かった。「水分ばかりで、いつも空腹だった」。気温は、マイナス20―30度まで冷え込む日もあった。風呂に入れるのは、「炭坑作業であんなに汚れる仕事をしていても、月に1回のみだった。しかも湯桶1杯の湯だけ。この1杯で1カ月分のあかを落とし、洗濯もしなければならなかった」という。

捕虜50人をまとめる小隊長だった高橋さん。作業ノルマをこなしたにもかかわらず、宿舎に帰らせてくれないソ連兵がいた。「偉そうに」―。思わず殴った。罰として10日間、土の穴の営倉に閉じ込められたこともあった。

2年がたったある日、高橋さんらは突然、汽車に乗せられた。行先はまたしても伝えられなかった。「どこに行きよるんやろ」―。言われるがまま、汽車から船を乗り継いだ。汽車に乗ってから2カ月後、舞鶴港に到着した。母国の港が見えた瞬間、「もう、うれしいばっかりで、ただひたすら万歳三唱をしていた」と笑う。

舞鶴港に上陸後、シベリア労働の「補償金」として、300円が手渡された。早速、たばこを買うと、1箱50円。シベリア労働の代償は、たばこ6箱分だった。

過酷な抑留生活を振り返り、「こんなにつらいことはなかった。シベリアは人がいられるところではなかった」と語気を強める。「『すしが食べたい』『まんじゅうも食べたいなあ』と、毎日寝ても覚めても、日本に帰りたい一心しかなかった」

私財を投じて建てた「高橋勝記念館」の館内に飾られている軍服など。実際に高橋さんが着用していた

2013年、高橋さんは「二度と同じ歴史を繰り返してはならない。次世代に思いを伝えたい」と、自宅のそばに記念館を建てた。高橋さんが着ていた軍服や教材など、戦時中に使われていた用具などがずらりと並んでいる。

命を落とした同士も数多くいる。「戦争で殺し合いをしたって、誰も幸せにはならない。良いことなんて何もない。戦争はもう二度とごめんです」。

シベリア抑留 1945年8月に、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、旧満州や千島列島に侵攻。日本人の軍人ら、約60万人がシベリアやモンゴルに送られ、およそ2000カ所の捕虜収容所で、鉄道建設、炭坑・鉱山労働、農作業などに従事した。重労働に食料不足、衛生設備の不備、疫病の流行などで、5万人以上が死亡した。約47万人は帰国したとされている。

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