特攻隊に憧れ 長崎の海で戦闘機訓練「血を沸かした」 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

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「戦争の悲惨さは言葉で語り尽くせない」と話す石田さん=2021年9月13日午後2時34分、兵庫県丹波篠山市東新町で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は石田慶隆さん(94)=兵庫県丹波篠山市東新町。

旧制中学2年生の時に太平洋戦争が始まり、世の中はますます軍事優先となり、正課で軍事教練が行われた。「私たちの関心も軍事に向き、特に飛行機に憧れた。いろいろな機種の図や写真を見て、血を沸かした」と振り返る。

1944年、中学4年を修了。「5年生に進んでも学業はほとんどなく、軍需工場への勤労奉仕があるばかり。両親が、食べ盛りの子ども3人を抱えて食料確保に四苦八苦している姿を見てつらかった」と、憧れていた海軍航空隊(少年飛行兵)に入ることを決意した。

同年4月、美保海軍航空隊(鳥取県米子市)に入隊。同航空隊には関西方面から約1000人が新しく入隊した。日常生活の全てが軍人としての規律、しつけ、体操、通信などの訓練で、寝ている時も気は休まらなかった。「夜中に非常の命令がある場合もあり、熟睡中に兵舎のマイクに電源スイッチが入ったかすかな音だけで目が開くほど、神経が尖っていた」

翌年4月、海軍甲種飛行予科練習生の課程を修了。飛行機の操縦実習を受ける予定だったが、戦局が切迫し、操縦実習する時間も飛行機もガソリンもなくなっていた。終戦間際、特攻要員として長崎県大村湾の川棚魚雷艇訓練所に派遣された。訓練所では、敵の上陸作戦の対抗策として、頭部に爆薬を詰め込んだ、1人乗り用の「特殊潜航艇」や、ベニヤ板製の1人乗りボート「震洋」、敵船の底を突いて自爆する「伏龍」などの特攻作戦を展開していた。

8月9日午前、海岸で潜水訓練中、空襲警報発令で林の中に待避した。姿は見えないものの大型飛行機の爆音がかすかに聞こえて遠ざかった。林から出て海に入ろうしたら、長崎市の方向で「雷が光ったように感じ、ゴーと雷音が聞こえた」。訓練が終わって、兵舎に帰ると、隊長から、長崎市に新型爆弾が投下され、壊滅状態と伝えられた。

それから間もなくして戦争は終わった。「戦闘機に乗って敵との空中戦を夢見て1年半、訓練に燃えてきたのに。神風特攻隊がうらやましかった」

終戦から3日ほどして米軍が上陸するまでに各自、帰郷する命令が下り、隊に残っている毛布、米、乾パン、缶詰などが分配された。門司まで船で行き、山陽線の汽車を利用することになった。門司の駅前広場に出ると、塀か何かを壊して集めたような木切れを燃やして雑炊のようなものを煮ているグループや、缶詰の空き缶の残りを食べている人にさらに食べ物をせがんでいる浮浪児や老人など、たくさんの人で埋め尽くされていた。「そこで初めて日本の敗戦を実感した」

汽車は何十時間かかかって広島駅に止まった。「広島に新型爆弾が落ちて全滅したとは聞いていたが、その情景の無残さに息が詰まった」。いくつかのコンクリート製の建物らしい残骸がポツンと残っていて、あとは赤茶けた焦土だった。ホームにあった白地の駅名標の、黒字で書かれた「廣島」の文字部分だけが焼け抜けていた。「その熱線の強烈さを感じた。広島での光景は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている」

翌日、大阪駅に着いた。「焼けたとは聞いていたがとにかく家まで行こう」と、焼け野原を進み、住んでいた長屋に到着。「全て焼けただれていた」。親戚があると聞いていた篠山に向かおうと、大阪駅に戻った。復員兵と一般人とでごった返していた駅のホームで5つ上の長兄の顔を見た。「夢かと思った」。「今、帰ったのか。元気か」と、再会を喜んだ。篠山口駅(丹波篠山市)まで帰り、疎開中の両親が世話になっている、同市にある母の妹の本家に到着した。

「今にして思えば、私は結局、何にも間に合わなかった。戦闘機パイロットも時間切れ、特攻隊も時間遅れ、海軍の飯を1年半食って教育隊ばかりで終わった。おかげで戦地に出ることもなく、鉄砲の弾をくらったこともなく、空襲の爆弾を被ったこともない。その当時、健康な若者で戦場での実戦や空襲を経験しなかったものは稀有」と振り返る。

「戦争がいったん起こってしまえば、これほど悲惨なことはない。その悲惨さは味わったものでなければ分からない。言葉で語り尽くせるものではない」

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