女子教育の灯ともす 学校設立の近藤九市郎 時代に先駆け「全身全霊」

2022.01.07
地域歴史

女子教育に全身全霊で打ち込んだ近藤九市郎

兵庫県丹波市にある「たんば黎明館」玄関前の庭に、男性の横顔を表現した銅像をはめ込んだ巨岩が立っている。男性の名は、近藤九市郎という。たんば黎明館はかつて柏原高等女学校の校舎として使われた。近藤は女学校の生みの親であり、育ての親だった。だからこそ、たんば黎明館の地にこの銅像が建ったのだが、時代が流れ、誰を表現したものかを知る人が少なくなった今、「銅像の主」を顧みたい。近藤は、女子教育に対する無理解があった時代に先駆けて女子教育に全身全霊で打ち込んだ人物であり、その活躍は多岐にわたった。

氷上郡の公費で建つ

かつて柏原高等女学校の校舎として使われたたんば黎明館の玄関前の庭に立つ近藤九市郎の像=兵庫県丹波市柏原町柏原で

大正15年(1926)11月14日、銅像の除幕式が行われた。この年の3月、近藤は23年間にわたって務めた校長を病気のため退任した。その功績は後世に伝えるべきものとして氷上郡(現丹波市)内の町村長たちが公費で建てることを決議したのだった。銅像を制作した彫刻家は、のちに日本芸術院会員になった藤井浩祐。10トンもある自然石に縦約60センチ、幅約45センチの銅像をはめ込んだ。

除幕式には、来賓200人をはじめ、同窓会員や女学校生徒ら合わせて800人とも1000人ともいわれる人たちが列席した。この日は、近藤の宿願だった図書館の落成式もあった。木造2階建てで、「松柏図書館」と言った。蔵書数は5000冊以上。外部の一般女性にも開放された図書館だった。銅像の除幕と図書館の落成。近藤はさぞや晴れがましい思いだったに違いない。

近藤は明治元年(1868)、今の京都府綾部市に生まれた。旧姓は福井といい、19歳の頃、養子に入り近藤に改まった。

明治22年、京都府師範学校尋常師範学科を卒業。その後、地元綾部の尋常小学校、高等小学校の訓導や校長を務め、明治30年には「文部省ヘ出向ヲ命ス」という辞令(京都府)を受け、高等師範学校訓導となった。明治34年9月、当時、初等教育界のリーダーとして全国的に名をはせていた近藤を、柏原町(丹波市)が崇広小学校の校長として迎え入れた。

以前から日本の女子教育の遅れを問題視していた近藤は、校長に着任した年の12月、近畿と東海地方の女子教育の状況を視察。すぐに高等女学校設立の方策を立て、柏原町長に設立を働きかけた。しかし、財政上、難しく、高等女学校設立までの第一段階として明治35年5月、崇広小学校内に女子補習科を設置。「ミニ女学校」が誕生した。今年でちょうど120年の節目になる。

校舎は、崇広小学校内にあった旧藩邸の大玄関2階の物置を改造したもので、それまではネズミの住み家だったという。粗末な校舎であったが、女子教育にかける近藤の思いは深く、東京から宮田ハナという女性を教員として迎えるなど、中身の充実に心を砕いた。

翌36年、柏原町立柏原女学校と改称。明治41年には氷上郡立高等女学校となり、近藤は、兼任していた崇広小学校校長を退職。翌42年には、明治18年に氷上高等小学校として設立された今のたんば黎明館に校舎を移転した。大正11年、県立柏原高等女学校に昇格した。

補習科の設置時に入学した生徒は26人だった。しかし、大正末期の頃には400人を突破し、押しも押されもしない女学校に成長した。

近藤に心酔した生徒

近藤は大正15年3月に校長を退任。翌4月に開かれた送別同窓会。多くの同窓会員が近藤の長年の労をねぎらった

校長退任後に開かれた創立30周年記念式典に来賓として出席した近藤は、あいさつの中で創立当時からを振り返り、「一難来たって基礎固まり、再難来たって進展しました」と語った。女学校の発展の陰に幾多の苦難があったことは、創立時から苦楽を共にした宮田ハナの送別式での近藤の様子からもうかがい知れる。明治40年、宮田は女学校を去ることになり、近藤は送別式で「君ならで誰か知らむ」と言い、涙したという。

心痛を抱えることがあっても、近藤は生徒の前では温容だった。大正12年に卒業した俳人の細見綾子は、「(柏女時代で)まず思い出すのは近藤九市郎先生で、静かな温容な方でありました。お怒りになった事はないというのが一般の評判でした」(「柏原高校70周年記念誌」)と書いている。

生徒たちは、女学校を築き上げた近藤に心酔した。先の創立30周年記念式典で、壇上に立った近藤の姿を見た同窓会員の中には、昔をしのんで涙ぐんだ者がいた。また、女学校充実のために近藤が私財を投じていたことを知っていた同窓会員は、近藤の校長退任に際して今後の暮らしを案じ、謝恩金を贈ろうと寄付を募った。先に妻を亡くした近藤が、妻の後を追う状態に陥り、京都の病院で伏していた時には同窓会員たちが臨終の際まで代わる代わる介抱にあたったという。

近藤の功績は女学校だけにとどまらない。綾部の生まれながら氷上の地を愛した近藤は明治45年、丹波史談会を創設。理事長を務め、女学校に事務局を置いた。郷土史研究を鼓舞するとともに、昭和2年(1927)には上下巻からなる大部の『氷上郡志』を発行した。編纂委員長の近藤を支えた郷土史家の松井拳堂は、「編纂委員長の近藤先生が、始終、郡書記の○○氏に借金し、洋服などを質に入れられたことなど、誰も知らないだろう。先生がなかったなら、『氷上郡志』は完成しなかった」とたたえた。

明治42年には、新聞の「柏原新報」を創刊。新聞紙法に基づく氷上郡内で最初の地方新聞で、時事や教育、文芸などを掲載し、月に3回発行した。

女子教育に打ち込むだけでなく、郷土史研究、新聞を通じた社会啓発などにも力を尽くした近藤。その功績は抜きん出ていたからこそ、氷上郡の公費で銅像が建てられた。

銅像建立から10年後の昭和11年、68歳で逝去した。

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