「遠からず実現」も… 考慮すべき当時の事情 福知山線「幻の駅」を追う(下)

2022.04.23
地域歴史

春日部駅の建設候補地の近く。写真左側の多田踏切より、やや黒井駅側だったという=2022年4月17日午後1時27分、兵庫県丹波市春日町多田で

激動の昭和時代、兵庫県丹波市あった新駅「春日部駅」設置の「夢構想」を追う連載の最終回。過去の丹波新聞から春日部駅に迫る。1959年(昭和34)2月25日付「七月に新設認可か」と見出しがあり、春日部駅の新設について「在京の有田(喜一)前代議士から『三十四年度に認可の見通しがついた』との連絡があった」とある。「(国鉄本社での)正式承認は七月ごろと思われる」と結ばれている。

ここからしばらく進捗はなかったが、2年後の61年(同36)1月10日付の紙面では、同市春日町から国鉄福知山鉄道管理局に再陳情をしたことが記されている。「三十三年に至って国鉄側に計画があったよう聞いたが、町財政や地元負担の問題で涙をのんで延期を願った」とあり、「その後、財政好転の見通しも立って、地元負担にも充分応じられるので」駅を設置してほしいとある。

この頃、同町の財政に目を転じると、55年(同30)の合併直後のまちづくりに伴う財政のやりくりもあって赤字だった。「春日町誌」によると、59年(同34)8月には、町財政の運営について、県などから赤字決算の処理について指摘を受けるなど、健全財政の確立が喫緊の課題だった。追い打ちをかけるように、同年9月の伊勢湾台風による同町の損害総額は、当時の金額で約3億2000万円に上り、町財政がピンチの時期だった。

「内定」の文字が躍る、1961年(昭和36)4月25日付の丹波新聞の記事

このため、畑正義町長は同年12月、自主再建計画を策定。この4年計画は順調に進み、計画を2年短縮した61年(同36)末に完了した。つまり、先述の記事にあるように、まさに財政好転の見通しが立とうとしていた頃、春日部駅設置を再陳述したようだ。同町誌によると、畑氏は春日部村会議員だったころから同駅設置を掲げて運動しており、畑氏にとっても悲願だったのだろう。

そのかいあってか、同年4月25日付の記事では、「停車場新設が内定 春日部地区内に」の見出しが躍る。「国鉄首脳部間で新設を内定した。遠からず実現の運びとなろう」と書かれている。

「具体的」だった構想

一方で、駅新設予定の地元はどうだったか。57年(昭和32)、同町多田に嫁いだ義積喜美子さん(87)は、春日部駅設置の構想があったことを記憶している。自家用車の普及が進んでいない当時、幼い2人の息子を連れて里帰りするには一苦労だったという。家の近くの春日部に駅ができれば、ずいぶん楽になると思ったことを覚えている。

春日部駅新設の話は、「かなり具体的だった」と話す。義積さんの夫は同町職員で、同駅の建設候補地として白羽の矢が立った農地の所有者宅に何度も足を運び、売買の話をしていたという。候補地は、今も変わらない場所にある多田踏切の近くだった。

ただ、この話はまとまらなかった。義積さんは当時を振り返り、「ほとんどの家が百姓で、米を育てていた。農地を売ってしまえば、稲作ができない。1本でも多く苗を植えたい、そう思う気持ちは本当によく分かる」と理解を示した。

「停車場新設が内定」の記事以降、丹波新聞では春日部駅関連の記事は見られない。65年(同40)6月17日付の紙面によると、同町は国鉄福知山鉄道管理局に黒井駅前広場の拡張と跨線橋の設置を陳情しているが、春日部駅の設置は要望していない。さらに言うと、同局は64年(同39)、福知山線の部分複線化による輸送力の増強などを含む長期6カ年計画を掲げたが、その中に春日部駅設置の文字はない。=終わり=

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