出自を異にする武士団 明智軍と対した「大芋衆」 【丹波の戦国武家を探る】(15)

2022.05.11
地域明智光秀と丹波地域歴史

『見聞諸家紋』の「二つ雁に菊水」紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

兵庫県丹波篠山市の篠山盆地北東部に位置する大芋(おくも)集落は、多紀郡(現・丹波篠山市)では早くから開けたところで、中世、大芋庄があった。大芋庄は大和朝廷の東北の鎮護として祀られた櫛岩窓神社の神領で、室町時代、幕府絵所領となり、絵所職の土佐家が領家職を有して実質的な領主であった。

 

式内名神大社・櫛岩窓神社(大芋社)

この大芋荘から起こった国人が大芋氏で、庄内西端の山上に豊林寺城を構え、丹波守護職細川氏の被官として勢力を伸ばした。大芋を名字としていることから開発領主かと思われるが、大芋式部丞(しきぶのじょう)から始まる『丹波志』の大芋氏系図は「本姓不詳、家紋は剣酢漿草(かたばみ)に蔓」と記され、式部丞以前のことは不詳である。

応仁の乱(1467年)後に成った『見聞諸家紋』には「大芋」とみえ「二つ雁に菊水」紋が記されている。菊水紋から大芋氏を楠木氏の一族、また雁紋から赤井氏の一族などという説もあるが、系図の剣酢漿草紋に従えば受け入れがたい。

ところで、大芋には山田・山崎・山上・山中など「菊に雁」紋を用いる家が多い。いずれも、『諸家紋』の「二つ雁に菊水」を彷彿させるものである。また、森本・中馬(なかうま)・宮林・真継(まつぎ)など中世以来であろう名字があり、それぞれ独自の家紋を用いている。大芋の諸家のうち、山田家は 『丹波志』 によれば源義光の後裔、中馬氏は「清和源氏新田氏流」、また、山上氏は「藤原北家秀郷(ほっけひでさと)流」という。いずれも大芋氏とは出自を異にする武家であった。おそらく、『諸家紋』にみえる「大芋」は「大芋衆」と呼ぶべき武士団をさしたものと思われ、「二つ雁に菊水」紋はその幕紋・旗印だったのではなかろうか。

 

大芋川(篠山川)越しに豊林寺城を見る

さて、守護細川氏が分裂した「永正の錯乱」に際して、大芋兵庫助は波多野元清らとともに細川高国方として行動、のちに波多野氏が台頭すると下風に立つようになった。戦国後期、大芋氏に代わって森本氏が豊林寺城主となり、大芋衆の中心的存在になったようだ。

明智光秀の丹波攻めが始まると大芋衆は波多野氏に属し、豊林寺城を中心に山上城・福井城に拠って明智軍と対した。天正六年(1578)、荒木城の合戦が起こると、大芋衆は荒木山城守に与して明智勢と戦った。激戦の末に山城守が降服すると、大芋衆も明智に下った。その後、大芋衆の諸氏は「山崎の合戦」、「文禄の役」などに犠牲を払いながら、近世は帰農して家名を現代に伝えている。

【豊林寺城】 応永年間(1394~1428)に大芋式部丞が築いたと伝えられる。豊林寺後方の山上に曲輪を連ね、竪堀、堀切などが確認できる。全体に大味で古い造りだが、綾部、須知への街道分岐点を押さえた要害である。

(田中豊茂=家紋World・日本家紋研究会理事)

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