明智と激戦繰り広げた荒木氏 波多野一族など出自に諸説【丹波の戦国武家を探る】(16)

2022.06.05
歴史

三春藩士荒木氏の「抱き牡丹」紋

この連載は、中世を生きた「丹波武士」たちの歴史を家紋と名字、山城などから探ろうというものである。

戦国時代の丹波に、多分に伝説的ではあるが「鬼」の異名をとった武将が三人いた。「赤鬼」こと荻野直正、「青鬼」こと籾井教業(綱利)、そして「荒木鬼」こと荒木山城守氏綱(氏香)である。氏綱は波多野氏の有力被官で細工所城主、一説に摂津有岡(伊丹)城主荒木村重の一族ともいわれる。

丹波荒木氏の出自に関して、後裔という澤山家に伝来する『荒木姓系図』は藤原秀郷を祖とし、伊勢・志摩国の荒木郷富屋から出たと伝えている。一方、『寛政重修諸家譜』の荒木系図では波多野兵部少輔氏義が丹波国天田郡荒木村(現京都府福知山市)に住んで荒木氏を称したといい、『丹波志』では近衛家より出て天田郡荒木邑から起こったと記している。文字通り諸説ありだが、寛政譜の所伝が妥当なところと思われる。

西尾根先の細工所砦、山側の大堀切

丹波荒木氏が史料上にあらわれるのは、天文年間(1532―55)、荒木清長が桐野河内を違乱した事件であろう。この史料から、当時荒木氏が波多野氏の被官であったことが知られる。

天正三年(1575)、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波に兵を進めると、波多野秀治ら丹波国衆は光秀に従った。ところが翌年、秀治は光秀から離反。以後、光秀と秀治との戦いが繰り広げられることになり、荒木氏も細工所城に拠って秀治方として行動した。ところで荒木氏を園部城主とするもの(籾井家日記など)があるが、当時の勢力分布からみて受け入れがたい。

籾井川越しに見た細工所城(荒木城)

さて、丹波荒木氏の家紋である。先の『荒木姓系図』には氏綱が今出川氏より「三つ柏」紋を賜ったとあり、いまも澤山家で用いられている。一方、『丹波志』の荒木氏の項には「丸に獅子牡丹」、子孫と思しき旧荒木村の荒木諸家では「枝付牡丹」が多用されている。また、伊丹有岡城主の荒木村重は「抱き牡丹」紋を用いたという。さらに、丹波荒木氏の後裔を称する三春藩秋田家の重職荒木家は「抱き牡丹」を用いた。これらのことから、中世を生きた丹波荒木氏は「牡丹」紋を用いたと推測される。

天正六年(1578)四月、荒木氏綱は明智軍を細工所城に迎え撃った。戦いは「井串極楽、細工所地獄、塩岡・岩ヶ鼻立ち地獄」という俗謡がいまに伝えられる激戦であったようだ。結局、氏綱は明智光秀の軍門に降って隠遁し、光秀に仕えた嫡男氏清は山崎の合戦で戦死したという。

細工所城 細工所城は荒木城・井串城とも呼ばれ、天文年間末(1550年ごろ)に荒木山城守が築いたと伝えられている。山上の広い主郭を中心に、三方に伸びる尾根筋に曲輪を連ねた大規模な連郭式の山城である。

(田中豊茂=家紋World・日本家紋研究会理事)

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