蔵の中から「高札」発見 旧町村名手掛かりに調査 節目や戦時下特有の法要を告知

2022.06.15
地域歴史

本庄さん宅の蔵から見つかった高札。左から宗蓮寺、善福寺、達身寺、高山寺、善福寺、妙寿寺、蛭子神社=2022年6月1日午前9時1分、兵庫県丹波市氷上町上新庄で

丹波新聞社では住民のさまざまな疑問を記者が調べて解決する「調べてくり探(たん)」を展開しています。今回は、「断捨離で自宅の土蔵を片付けていたら、お寺と神社の高札が出てきました。7枚全て、(兵庫県丹波市)氷上町内のものです。高札に日付はありますが、年がありません。いつ頃のものなのか、また、知らせている仏事、神事の意味を知りたい」との質問。早速、調べてみることにしましょう。

旧町村名や、記載内容を手掛かりに調査。当該寺社の歴史上特筆すべき節目となる重要な法要、神事の告知と、うち2枚は戦時下特有のものと分かった。時期は、明治もしくは大正から、最も新しいものは昭和33年と幅があった。

日中戦争中の「昭和十五年」と、唯一「年」の記載がある善福寺(氷上町三原、曹洞宗)の「江湖會」高札は、神武天皇即位2600年を祝う法要のものと推定される。昭和15年は「皇紀二千六百年」。全国で盛大に祝賀行事が行われた。曹洞宗総合研究センター(東京都)によると、本山が奉讃法要を営むよう勧めていた。「奉●皇紀」(●=「示」へんに壽)「皇軍武運長久祈願」「英霊追吊大法要」と、戦時下ならではの文言が並んでいる。

宗蓮寺(同町成松、曹洞宗)の「梵鐘供養」も戦争に関係している。兵器製造のために国民に金属類を供出させる「金属回収令」(昭和16年)で、寺の梵鐘を「献納」した際のものだ。曹洞宗の機関紙「曹洞宗報」は、昭和16年11月、梵鐘提供を呼び掛け、17年11月に「梵鐘供養」の式次第を掲載している。高札の「四月廿十四廿五日」は、昭和17―19年のいずれかの4月24、25日と推定される。

「葛野村誌」に、葛野村の寺社が供出した13の梵鐘の記録がある。資料作成日は、「昭和17年11月17日」。宗蓮寺と同じ曹洞宗寺院がこの時点で応徴していた。

現在の妙寿寺(同町成松、法華宗真門流)の「四月十四日 上棟遷仏式」は、「成松町誌」に「昭和十年」とある。江戸中期から信仰を集めた寺が廃れ、大正8年に甲賀山から現在地に移転、寺の再興の総仕上げが同式だった。

高山寺の落慶大法要を告知する丹波新聞の記事(昭和33年4月25日号)

高山寺(同町常楽)の「四月廿七日―廿九日 開扉開山記念 落慶大法要」は、昭和33年。同年4月25日付の丹波新聞に、見つかったのと同じ筆跡とみられる高札の写真が掲載されている。同町長野の弘浪山中から現在地に移った際の法要の告知だ。記事によると、33年に1度の本尊開帳が合わせてあり、演芸会や祝賀飛行といった協賛行事も。成松界隈は満艦飾の大にぎわい。次号で、雨の中営まれた初日の法要の写真を掲載している。

唯一の神社、「蛭子神社」(同町成松)の「四月二日三日 式年大祭典」の高札は、現在の成松区の旧地名「柿柴町」の表記から、大正7年4月15日に改称する前のものと推定される。同神社は創建が明治22年。式年祭は10年に1度。高札は10年祭(明治33年)か、20年祭(同43年)か、30年祭(大正7年)のいずれかと推定される。

「成松町誌」に、「柿芝(柴)町」は、元禄8年(1695)に、柿芝村から分離したとある(それ以前から存在)。柿柴町は、商業地として発展した。明治22年の町村制で、「葛野村柿柴」(現在の氷上町柿柴)と、「成松村柿柴」と、2つの柿柴ができ、混同が生じた。双方にとって迷惑だと、慣習で「成松」と呼ばれていた柿柴町が改称した。

善福寺の「授戒會」と達身寺(氷上町清住)の「江湖會」は、「三原村」「葛野村」の村名から、いずれも昭和30年の氷上町誕生前と推察されるが、絞り込めなかった。

本庄さん(70)は、「大きな行事のものだろうと思っていたが、想像以上」と感心する。

本庄さん宅は、「まるぶん」の屋号で、旧街道沿いで明治から商売をしている。高札は店の前に立てられたものか、別の場所から持ってきたのかは定かではない。「曾祖父も祖父も、蔵にいろんなものをため込んでいる。血を引いたのか、私もため込む性格」と苦笑いした。希望する寺社に高札を返す。

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