終戦、周りは日本人墓地化 友人が母の仇討ち 戦後77年―語り継ぐ戦争の記憶⑥

2022.09.10
地域歴史

今年で終戦から77年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は西脇正巳さん(92)=兵庫県丹波篠山市奥畑=。

小学1年生の時に満州の錦州市に一家転住した。1945年、中学3年生になって間もなく、学校を離れて開拓団の勤労奉仕に行った。6月、父が軍に召集され、私は家に帰った。召集と言うと「万歳万歳」と旗を振って見送るものだが、灯火管制のため暗い駅の隅でひっそりと見送った。再び会うことはあるまいと思った。

45年6月から7月には45歳以下の男性はほとんど軍人になり、街は年寄りと女性、子どもだけになっていた。限度年齢の45歳とはいえ、市会議員だった父が召集されたのは、「関東軍の気に障るような言動があったからだ」と言われた。召集された父はソ連国境に近い朝鮮の軍施設に連れて行かれた。そこには銃1丁、弾1発もなし。訓練もなく、食べて寝るだけの生活だったと聞いた。

1945年8月15日は登校日だったが、体調不良で登校しなかった。その日は重大放送のある日で、必ず聞くように言われていたが、聞けなかった。登校した隣に住む同級生から学校がなくなったこと、身分証明書を渡されたことを聞いた。

夜になると、飛行場の方から猛烈な爆発音と、猛火、黒煙が上がった。夜がふけると、家の前の道路で突然、銃声や機関銃の音が一夜続いた。終戦日の夜、誰と誰とが何のために戦っているのかまったく分からない戦争が始まった。夜が明けると、遠くで時々単発の銃声がするだけになり、訳の分からない戦争はあっけなく終わっていた。

身分証明書をもらうために校長の家に行くことになった。道には人影がまったくなかった夜だった。私の家は中国人街と日本人街の境目で、周りは中国人の家が多かった。通りの向かいの中国人の家で事件が起こった。そこは中国政府の要人が寄宿していると言われていた。ここで日本人の若い女性が服毒自死をして、その女性に毒薬を渡した日本人が制裁されたという。

中国は内戦の最中で共産党の支配下になった。小学生の時、一番仲の良かった友人が共産党軍の制服で現れて驚かされたが、その後、長い時間がたって日本で再会して真相を知った。中国人街の中に1軒だけ友人の家があり、父親は軍隊、友人は遠い学校で一人暮らしをしていた。母親が2人の男性の暴行を受けて自死。友人はその報復のため、八路軍に入っていた。中学3年生が母親の仇討ちをするとは地獄と言わず何と言えるのかと思った。

零下20度近くになる厳冬の寒さは暖房がなければ地獄で、飢えもまた地獄。46年の冬を越すと近くの公園は日本人墓地と化した。私たち一家がその仲間にならなくて済んだのはいくつかの幸運があった。

敗戦後、占領軍としてソ連兵が来ると、成年女性は髪を切って、男装をして生活していた。その頃、日本人の住宅や店舗は、多数の現地人の集団によって略奪され、「暴民」と呼ばれて恐れられた。自然発生的なものだと思っていたが、私の家に来た時、集団の先頭に白馬のソ連兵を見た。ソ連兵の指導によるものであることが分かった。

家が略奪に遭わなかったのは、寄宿していた中国政府の特殊任務の人たちのおかげだった。それらの人たちが家を取り巻いて、玄関まで来ていた暴民を追い払った。もう一つ最も大きな幸運は、父が無事に帰ってきたこと。父は列車を待っている間に一緒に仕事をしていた叔父と会い、一緒に帰ってきていた。

北朝鮮にいた父はともかく、満州にいた叔父が帰ってきたのは幸運としか言いようがない。ソ連は満州にあった大量の施設や物資を略奪したが、多数の兵士もシベリアの強制労働に連れて行ったから。叔父と私は人通りの多い道で焼き芋を売る仕事をした。大した収入にはならなかったが、ひと冬続けた。そして5月になり、引揚船に乗った。

※西脇さんの本紙への投稿をもとにまとめました。

関連記事