田舎で”ぼちぼち” ここでしかできない仕事を 「山の手入れ」と「牛飼い」 それぞれが歩む人生とは

2023.01.14
地域自然

山に囲まれた、兵庫県の内陸部に位置する丹波市。この自然豊かな土地に移住した、2家族がいる。「森林は楽しむもの。中古車1台分くらいのお金で自分の山を持ち、手を入れて大切にする」価値を広め、瀕死の日本の山林を少しでも元気にしようと、イギリスの首都・ロンドン市内から家族4人で移住したジェームス・グラハムさん(44)=青垣町=と、人口2250人の秋田県上小阿仁(かみこあに)村での「地域おこし協力隊員」から孫ターンし、祖父母の畜産(但馬牛の繁殖農家)を継いだ水原聡一郎さん(35)、彩子さん(35)夫妻=春日町=。田舎でなければできない仕事をぼちぼちする2組を紹介する。

ジェームズさん一家 「山所有し手入れ」を価値に

森林付きの古民家を取得したジェームスさん一家。教室なし、教科書なしで英会話を教えることも考えている=兵庫県丹波市青垣町西芦田で

ガーデニングや林の手入れが趣味の一つ。チェーンソーを使うが、林業家ではない。およそ20年、大手監査法人で勤務。2020年、新型コロナウイルスの世界的な流行で勤務先が募った早期退職に手を挙げた。時を同じくして、ロンドン市中心部から車で1時間ほどの郊外に、ブナの大木が生えた5エーカー(約2ヘクタール)の森林を購入した。ちょっとしたキャンプサイトをこしらえ、コロナ禍の家族安らぎの時間を、森で過ごした。その頃インターネットで読んだ、日本の放置山林に関する記事に衝撃を受けた。四国の森林がただ同然でたたき売られていた。

ロンドン市があるイングランドの森林被覆率は10%。森林が少ないイギリスは、法律で厳しく森を守っている。自分の森でも構造物を造ることができない。日本人が「いらない」森林を買って手入れをし、投資、換金目的でなく「山を持ち、大切にすることを価値とする暮らし」を、日本で広めたい思いが募った。

「一度きりの人生、今これをしなければ、一生後悔する」と計画を進め、昨年4月に来日。7年前に丹波市青垣町神楽自治振興会が運営していた田舎暮らし体験古民家「かじかの郷」で過ごし「人々の穏やかな感じも、山に囲まれた感じも好き」と、気に入ったまちを移住先に選んだ。

急峻な日本の山でチェーンソーでヒノキを切るジェームスさん=兵庫県丹波市青垣町内で

山を丸ごと買い、裾野や見晴らしの良い所を、山を大切にする仲間に販売し、その収益を山頂など急峻で人手が入りにくい所の手入れに充てるアイデアがあったが、青垣町で詳しく調べるうちに、「持ち主不明」「境界不明」「面倒臭いから手放さない」と、想像だにしなかった問題に直面した。

まずは、実践例をつくる。自宅近くに取得した590坪(約20アール)の林に手を入れる。幸いにして平坦な土地。「散歩ができる小道をつくり、光を入れる。どんな植物が生えてくるか観察し、森林にとって何をするのが良いか考える」

企業のSDGs(持続可能な開発目標)活動と、森林整備を結び付ける方法を模索中。植林で山に一日入っておしまい、ではなく、踏み込んだ活動を提案したいと考えている。「環境への貢献に予算を持つ会社もある」

「お金を横に置くと、田舎の方が生活の水準は良く、人生の質は高い」と言う。「1万人に1人でなく、30人に1人の人のつながり、コミュニティーの連帯感がある。子どもだけで外で遊ばせられる安心、『周りの人を疑いなさい』と、子どもを育てなくていいのが良い」

帰国は3年前は考えたこともなかった思いがけない人生の大転換。「皆さんに温かく迎えてもらい、越して来て、本当に良かった」と妻の美也子さん(43)=東京都出身。「思う存分やったらいいと思う」と夫の挑戦を応援する。

今年は、林の整備、70坪の古民家の改修、600坪の畑の世話と、大忙しの年になりそうだ。

水原さん一家 祖父母の跡継ぎ牛飼い

牛飼いの水原さん夫妻と、滉一朗君(4)、英治郎君(1)。連れているのは、次のエース母牛と期待する「はるのすみれ」=兵庫県丹波市春日町野上野で

祖父の山本曻治さんから跡を継いだ時に6頭だった親牛を、7年かかって13頭まで増やした。牛は1年1産。売るのを控え、生まれた雌を大切に育てた。親牛が増えた今年は1、2月だけで子牛3頭を競りにかけられそう。これまでは年間3、4頭だった。

聡一郎さんは、神奈川県相模原市出身。東北初の協力隊員だった。同村を代表するマタギの里、八木沢地区で9年、生活。7、8世帯十数人のほとんどが70―90歳代という限界集落で、雪かき、まき割り、農作業などを手伝った。

京都府久御山町出身の彩子さんは、協力隊の後輩。美術系大学を出ており、イラストで村をPRしたり、飛び地開催された「大地の芸術祭」の運営に携わった。「上小阿仁を離れがたかったけれど、妻に引っ張られ、丹波の都会に来てしまった」(聡一郎さん)。

彩子さんが2015年、祖父母の介護目的で隊員任期を1年切り上げ、移住。絵を描きながら、介護をと考えていたが、家業を手伝ううちに、跡継ぎに。「この辺りの牛はよく働くので、富士山の辺りまで売りに行った」などと幼い頃から牛の話をよく聞いた。小学校低学年の頃、お産に立ち合ったショックでしばらく牛肉が食べられなくなったことも。牛は、身近な存在ではあった。

牛飼いの祖父を描いた冊子の一部。今も旧姓の河原﨑彩子の名前で仕事を受けている。屋号は「絵かきミクロ」

翌年、「畜産用語も丹波弁も分からない」聡一郎さんも一緒に牛飼いを始めた。「牛の力と周囲の皆さんのおかげ」で、枝肉で「A5のBMS12」評価の牛が出るように。A5は歩留まりの最高値。BMSは霜降りの量では最高値だ。

「祖父母が世話するのを見ていたので、やれるだけやろうかな、牛もいるし、助けてくれる人もいるし、くらいの感じで始めた」と彩子さんが言えば、聡一郎さんも「使命感はないんです。ふわーっとしている。ただ、今ここで生きている牛への責任は感じる。粗末にしてはいけないと思ってやっています」と気負いはない。

「私たちで4代目。昔から続けているから、何とか地域に受け入れてもらっているんだろうと思う」と彩子さん。飼料価格高騰の折り、昨年から、地元の野上野営農組合が飼料用米栽培に取り組んでくれて、助かっている。

彩子さんは、牛を飼いながら、いろんな地域を絵でつなぐ夢を持つ。聡一郎さんも、温かく迎え、鍛えてくれた秋田と丹波を将来、何かでつなぎたい思いがある。

そのためには、経営の安定。「同じ肥育農家に何度も買ってもらえる農家になれるよう、日々、少しずつ勉強です」。より頭数を増やせるよう、牛舎の改修も、こつこつ進めている。

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