今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は三角みき代さん(98)=兵庫県丹波篠山市京町=。
1925年、同市中野で6人きょうだいの2番目として生まれた。
修徳尋常高等小学校(現・同市立味間小学校)の頃、篠山口駅まで日の丸の旗を持って、出征する兵隊をよく見送りに行ったのを覚えている。兵隊たちは車窓から体を乗り出して大きく手を振りながら戦場へと向かった。「今思えば、戦争に勝たなければ生きて帰れない。国のために死ぬつもりだったんだろう。幼心に生きて帰ってきてほしいと思っていた」
学校では、戦地にいる兵隊へ送る激励文「慰問文」をよく書いた。何を書いたか覚えていないが、「『お国のために頑張ってください』といった内容だったと思う」。また、男性の先生が放課後、自身が好きだったのか「軍国子守唄」のレコードをよく聞かせてくれた。
♪坊や泣かずにねんねしな 父さん強い兵隊さん その子がなんで泣きましょう 泣きはしませぬ遠い満州のお月さま
レコードが珍しかった時代。3番まである歌詞を今でも歌える。
普段の食事は細くて小粒のシナ米をよく食べた。おいしいとは言えない味にも次第と慣れていった。キビを入れて食べたり、麦の方が多いくらいの麦ごはんを食べたりした。食料は十分ではなかったが、あるにはあった。
ただ、それも両親が工面してくれていたからだろう。両親は子どもに食べ物の苦労はさせまいと、農家へ嫁ぐことを勧め、20歳の時、耕作面積が1・5ヘクタールほどあった今の家に嫁いだ。「私、もっと(体格が)ぽちゃっとしてたけれど、百姓の仕事を覚えるうち、すっとスマートになった。何でも手作業の時代やもんね」と笑う。
嫁いだ年の8月15日、兵庫県三田市の友人宅へ遊びに行っていた。お昼におはぎを食べようと話していた時、ラジオから天皇陛下の声が聞こえてきた。戦争が終わったことを知った。「気が張っていたのが、いっぺんに抜けたような感じになった」。砂糖が手に入らない時代の塩味のおはぎ。天皇陛下の声とおはぎの味は今も忘れられない。
天皇陛下の声はとても寂しく耳に残っているけれど、「その後も戦争が続いて、もっと原爆が落とされていたら、日本はどうなっていたか」。