今年で終戦から79年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は渡邊定子さん(88)=兵庫県川西市=。
1936年、京都で生まれた。幼少の頃、父が大阪・東住吉区に友禅の工房を構えることになり、転居。その後、父が体調を崩して入院することになり、再び京都に戻った。その頃、経済的な理由からか、母が家を出た。祖父、祖母と暮らし、御所の南側にある小学校に入学。校舎屋上には御所を守るためか、高射砲が2―3台据えられていた。
食べる物が十分でない時代。イナゴを捕りに御所へ行った。配給の行きや帰りの道中で空襲警報が鳴り、鴨川の橋の下へ転がり込むように隠れたこともあった。
45年に父が他界。しばらくして終戦を迎えた。ラジオから流れる天皇陛下の話はよく理解できなかった。ただ、しばらくして庭に出ると、戦闘機があざ笑うかのように屋根をかすめて日本海方面へ飛んで行った。「戦争が終わった」と感じた。
どういういきさつかは分からないが、家を出ていた母が兵庫県丹波篠山市追入の、当時は金山の頂上近くにあった園林寺の住職と再婚しており、46年に同寺に引き取られた。以降、小学5、6年生を大山小学校で、中学時代を大山中学校で過ごした。
都会育ちで農作業一つしたことがなかった。大山小学校の農園でムギを初めて刈り、鎌で指を切ったのも初めての経験。寺には小さな畑があり、住職の母いとさんに畑仕事や煮炊きを一から教わった。手製のわら草履で毎日、“自宅”の寺まで上り下り。生活水は雨水を利用し、飲み水は30分ほどかけてくみに行った。一方で、たくさんのマツタケが採れたこと、植物研究で大学生が調査に訪れたことも覚えている。
中学卒業後、京都の電気通信学園へ進み、後のNTTまで勤め上げた。
「大山での経験が自身の骨格となり、これまでの暮らしも何とかしのいでこれた。これまで古里と呼べる地のない人生だったが、今思うと、自分にとっての古里は丹波」と話す。
世界では戦争、紛争が絶えない。「戦後、都市部では、戦争で親を亡くした子や傷痍軍人が物乞いをしていた。ウクライナなどの戦況を伝えるテレビで親を亡くした子を見ると、涙が出そうになる。衣食住に心配のない平和な時代はありがたいとつくづく思う」