東日本大震災の発生から14年が過ぎた。そんな中、福島第一原発事故を受け、2012年に福島県福島市から兵庫県丹波地域に避難移住した男性(44)が、郷里に戻る決意を固めた。「被災者だろうがなかろうが、私たち家族を受け入れてくださったことがうれしかったし、本当に助けてもらった」と感謝。一方で、「たくさん得たものがあったけれど、きっかけは震災だったことが悔しい」と複雑な心境も吐露する。なぜ今、帰郷を決めたのか。これまでの経緯や13年過ごした丹波を離れる思いを語ってもらった。
記者と男性との出会いは、震災、原発事故から1年たった2012年初夏。避難移住した思いを取材させてもらったのがきっかけだった。「明るい人」というのが第一印象。それから顔を合わせるたびにしゃべり、時には酒を酌み交わし、冗談を言い合った。いつしか取材対象ではなく、気の合う友になっていた。
しかし、震災当時の体験を語る時、男性の表情から笑顔が消える。
◆自宅前が「ホットスポット」
11年3月11日、福島市。激震が襲った。12日には原発で爆発が起きた。
妻と幼い子どもを連れての避難生活。仕事や水をもらいに幾度となく外に出た。当時、まちに放射性物質が降っていたとは知らなかった。
後に福島市内の別の地区に引っ越した。原発から約60キロ離れた場所だが、貸し出された放射線量計を自宅前で使ってみたところ、一瞬で針が振り切れる。局地的に放射線量が高い「ホットスポット」だった。
「ここにはいられない」―。家族を守るため、仕事があった男性は福島に残り、妻と子どもは県外に避難した。
◆悩んだ末の移住
自宅周辺は国の避難区域には指定されなかったため、統計上の避難者の数に入っていない「自主避難」。わずかな一時金は支給されたものの、二重生活の交通費などですぐになくなった。
悩んだ末、子どもの安全な成長と、家族そろっての平和な暮らしという「当たり前」をかなえるため、福島から距離を取ることを決意。仕事も辞め、知人を介して知った丹波に移住した。「とにかく遠くへ」という一心だった。
縁もゆかりもなかったが、仕事を得ることもでき、新しい生活が始まった。移り住んだ市は避難者支援に取り組んでおり、市民からの義援金と同額を上乗せした基金を活用して家賃を補助した。
◆郷里への思い
生活を送る中で、人のつながりがどんどん増えていった。何でも相談できる仲間、飛び交うホタルを眺めながらの飲み会、たくさんの新鮮な野菜をくれる人。「福島から避難してきた人ではなく、家族のように接してくれた。本当にうれしかった」
ただ、いつも心に引っかかりがあった。「幸せな半面、ずっと震災の影を引きずっていた。特に仕事。何事もなく福島にいて仕事を続けていたら、どんなキャリアだったのか。それを失ったのは間違いなくて」
10年が過ぎ、郷里への思いも膨らんだ。仕事も通じて丹波に詳しくなればなるほど、「ここよりも過疎化が進んでいる故郷のことをあまり知らない」ことに気づく。実家の両親も高齢になってきている。焦りにも似た気持ちが募っていった。
当初から、「いつかは東北に」と考えていたが、揺らぐ気持ちの背中を押される出来事があった。一つは祖母が亡くなったこと。悲しみと同時に、何かあったとき、すぐに戻れない距離で暮らしていることを改めて思わされた。
もう一つが、幼かった子どもが高校を卒業し、兵庫県外の大学に進学すること。小さかった体は大きくなり、顔つきもすっかり大人になったわが子の姿を見て、言いようのない安心感に包まれた。
福島に戻り、ゼロから就職活動をするには、年齢的にも限界が近い。「いつか」は今だと、帰郷を決心した。
◆描いた未来は
放射線への不安が消えたわけではない。一方で、福島に残って生活を続けている人もいて、避難した自分たちが「風評」の原因になっているかもしれないという悩みも常に抱えてきた。「家族のために避難して偉い」と言ってくれる人もいれば、「大げさな」「まだ避難しているの?」と言う人がいることも分かっている。
移住はあくまで自分たちの選択であって、残ったこと、離れたこと、どちらが正しいかはわからない。しかし、男性は「あの時、子どもたちが外で遊ぶことを制限され、肌を出さない服装をしたり、放射性物質がたまりやすい側溝の近くを歩かないことが推奨されたりした状況は普通ではなかったと、今も思う」。自分たち夫婦だけならまだしも、せめて子どもが成長するまでは福島から距離を置きたかった。
「避難を決めた時は一生を懸けていた。結果として不安なく生活を送れたし、子どもも無事に成長してくれた。あの時、描いた未来は、ここでかなえることができた」
丹波を離れることにも後ろめたさもあった。「せっかく恩義をもらったのに、出ていってしまうことをとがめられないか」。複雑な思いを抱きながら、仲の良い人々に帰郷を打ち明けると、誰も否定せず、「仕事は大丈夫なんかいな?」などと、その後の生活を心配し、応援もしてくれた。「ありがたかった。引っ越すまでに、住宅の支援をしてくれた行政にもお礼を言いに行きたい」
ゼロからの生活に不安もあるが、「ほっ」としている自分もいる。
◆いつかまた
13年、いろいろな一生の宝を得た。子どもは間違いなく丹波育ちで、親友はここでできた。「避難者だから」ではなく、クラスメートとしてつながりができたことがうれしいし、助けられた。「はたちのつどい」は、丹波で参加することになる。
郷里での仕事は決まっていない。ただ、夢はある。「実家のまちは、丹波ほどではないかもしれないけれど、魅力があると思う。自然や古民家を生かした取り組みは、丹波でたくさん見てきた。いつか、ここで学んだことを故郷で生かせたら」
縁あって移り住み、つながりが広がった丹波。「福島で体験したことを、地域や職場で話させてもらう機会があった。みんなじっくり聞いてくれて、泣いてくれる人もいた。自分がこのまちに何かを残せたとは思わないけれど、当事者として少しでも震災や福島のことを身近に感じてもらえたなら、ここに来た意味があったのかもしれない」
生活が落ち着けば、またいつか丹波を訪れようと思っている。「次は一ファンとして訪れたい。みなさま、本当にありがとうございました」
別れ際、記者が「また飲もう」と誘うと、「もちろん。福島の地酒で乾杯しよう」と笑った。