氷上農業高校だった1968年(昭和43)以来、57年ぶりに春季県高校野球大会に出場した兵庫県丹波市の氷上高野球部が、姫路ウインク球場で行われた1回戦で、関西学院(西宮市)に1―2で惜敗した。1年生2人がメンバーに加わり、13人で甲子園出場経験がある古豪をあと一歩まで追い詰めた。試合2日前には、丹波新聞の記事で氷上の県出場を知った、氷上農高の初代野球部監督、吉見安弘さん(84)と、教え子の上山(旧姓・河津)静男さん(76)が、選手の激励に来校。現在の選手たちの活躍がきっかけになり、草創期の野球部との間に絆が生まれた。
吉見さんは、県立篠山農業高校氷上分校から氷上農業高校として独立した63年(昭和38)4月、保健体育教師として新採用。大学時代、準硬式野球の経験があったことから、独立と同時に発足した氷上農高初代硬式野球部の監督に就任した。
当時のグラウンドは狭く、石拾いや草引きから始めた。練習ができないときは、丹波市氷上町成松にあった企業のグラウンドや近くの明徳中学校の運動場を借り、白球を追いかけた。学校近隣の住民がノックなど練習に力を貸してくれたことがあり、練習場所の移動時には車を出してくれたこともあったという。
「草創期のころ、強豪の三田学園が目標だった」と吉見さん。「独立校になり、職員、生徒共に実績をつくり上げるという強い思いがあった時代だった」と振り返る。指揮を執った67年度(昭和42年度)までの5年間で、65、66年の2度、春季県大会に出場。その後は篠山鳳鳴、柏原へと転勤し、各校の硬式野球部で監督、部長を務めた。
上山さんは64年(昭和39)に入学。「当時はずっとグラウンドの石拾いをしていた」と笑う。1学年上には、後に社会人野球の小西酒造や、プロ野球・近鉄バファローズにも所属した三宅成幸さんがいた。「三宅さんは体が大きくてね。上手だった」と話す。
上山さんは2年生から三塁手でレギュラー。「黒井城跡がある城山を登って体を鍛えた。水を飲んではいけないと言われた時代でね。ボール拾いの時に、わざとボールを溝に蹴とばし、こっそり溝の水を飲んだこともあった」と苦笑い。
3年夏の県予選2回戦は、今春季県大会で氷上が敗れた関西学院と対戦し、0―7のコールド負けを喫した。相手投手の速球に目を見張り、「こんな球は前に飛びそうにないと思った」と振り返る。
現在の原智徳監督(47)は、「関西学院との対戦は、この時以来かもしれない」と話す。
「氷上高校」としては初の春季県大会。氷上は一、二回裏に連続失点し、2点を追う展開。得点圏にランナーを進めるものの、1本が出ずもどかしい状況が続いた。
後がない九回表2死一、二塁から9番川本快大さん(2年)がセンターに適時打を放ち、1点差に迫った。初戦突破に期待が高まったが、惜しくも後続が断たれた。
前林明磨主将(3年)は、「勝ちたかったし、勝てた試合だった」と唇をかむ。「保護者や先生など多くの人が応援してくれた。57年ぶりというプレッシャーは感じたが、粘り強く戦う氷上の野球はできた。夏に向け、特に打撃を磨きたい」と前を向いた。
吉見さんは「善戦で、立派な試合。守りがしっかりしていたんだろう。夏が楽しみ」と期待。上山さんは「自分たちは関学にコールド負けで、手も足も出なかった。良い試合をしてくれて誇らしい」と話した。
原監督は「地域に愛されるチームにと思ってやってきたが、子どもたちのおかげで地域の方とつながりが持ててうれしい」と喜んだ。